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【試し読み】ダリアン・リーダー『ハンズ 手の精神史』第1章「分裂する手──自律と自由のパラドックス」

2020年11月刊行、ダリアン・リーダー『ハンズ 手の精神史』(松本卓也・牧瀬英幹 訳)の試し読みを公開しています。
人間の歴史を「手を使って行うことの変化」として読み直す、ラカン派気鋭の研究者によるエッセイ。文化や歴史、心理学や精神分析の理論を横断しながら、自分自身や他者との関係、現代に潜む病理を、ユーモアを交えつつ鋭く描き出します。
第1章では、コロナ禍において、まさに私たちが直面している「二つの生の分離」についても取り上げられています。


 インターネット、スマートフォン、PCによって彩られる新たな時代は、私たちの存在や他者との関わり方に根本的な影響を与えたといわれている。なるほど、たしかに日常生活の根幹をなすデジタル技術によって、空間と時間という古い境界は崩壊したようにみえる。私たちは、即座にコミュニケーションをとることができるようになった。相手が遠くにいたとしても、近くにいたとしても、コミュニケーションは同様に可能であり、他の大陸に住む身内とスカイプすることもできるし、隣のテーブルに座っているクラスメートにメールを送ることもできる。画面にタッチするだけで、ウェブを介して動画や写真を流すことができるし、公私にわたる生活を事細かにソーシャルメディアに公開することだってできる。人々が電車やバスやカフェや車のなかで行っているのは、画面をタップして会話する、ブラウズしてクリックする、スクロールしてスワイプする、といったことだ。
 これらの変化の結果として、21世紀の私たちは新たな現実に住まうようになったと、哲学者、社会理論家、心理学者、人類学者はみな異口同音にいう。たとえば、関係がより浅くなったとか深くなっただとか、より長続きするようになったとかその場かぎりのものになっただとか、より脆弱になったとかしっかりしたものになっただとか、そういったことが語られている。多くの職場がヴァーチャルなものになるにつれて、「9時5時勤務」という枠組みに当てはまらない生活を構築する新たな可能性が生まれてもいる。私たちがどのように理解しようとも、これらの変化が実際に生じたのだということ、つまり、世界は以前とは違う場所になったということ、デジタル時代は疑いの余地なく新たなものであるということを誰もが認めている。
 しかし、人間の歴史におけるこの新時代を、少々異なる角度からみればどうだろうか? 現代文明がもたらすものへの新たな期待や不満に焦点を当てるのではなく、今日の変化を、「人間が自分の手を使って行うことの変化」として捉えてみるとすれば? デジタル時代の到来によって、私たちの経験のありさまが変わってしまった例も多いかもしれない。しかし、この時代には、もっとも明白であるにもかかわらず無視されている特徴がある。それは、これまでに前例のないほどのさまざまな方法で、手を忙しくしておくことができるようになった、ということではないだろうか。

 実際、手の使い方には大きな変化がみられる。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店のオーナーによれば、現代の若者は紙のページをめくる際にもスクロールの動作を行うことがあるのだという。アップル社は、ある手振りの特許を申請している。2007年に申請された特許7844915は、文書のスクロールとピンチインの手振りを、2008年に申請された特許7479949は、さまざまなタッチの手振りを含むものであった。手振りでも特許を取得できるのだが、両者ともすでにある特許で扱われていたため、申請は無効と判断されている。
 医師の観察によれば、このような変化にともなって、コンピュータや電話に関連した手の障害が大幅に増加しているという。指と手首が、これまでは存在しなかった新たな動きのために用いられているためである。この新たな変化の結果として、手それ自体の硬組織と軟組織の両方に変化が起こることが予想されている。最終的には、口の構造が変化した──食卓用ナイフの導入によって咬合の形態が変化した、といわれている──のと同様に、手も大きく変化することになるだろう。約250年前までに私たちが行っていた〔上下の前歯がちょうど合わさる〕切端咬合は、食卓用ナイフが食物の新たな切断法を可能にしたために、(上の前歯が下の前歯にかぶさる)過蓋咬合となった。こういった事例のように、身体が技術にとって二次的なものであることは、今日の製品のネーミングにも反映されている。iPadやiPhoneにおいて大文字になっているのは、使用者としての「私」ではなく、パッドと電話なのである。
 しかし、手の使い方がたしかに変化しているのだとしても、「手を忙しくしておかなければならない」という事実は新しいものではない。織物から糸紡ぎ、編み物、書き物にいたるまで、人間はつねに手を使っている。子守中の親がかつては編み物をしたり、新聞のページをめくっていたりしたのだとしたら、今日の親はメールのやり取りをしたり、ネットサーフィンをしたりしている。自宅では、コンピュータゲームが手指を占有している。世界でもっとも成功したゲームである「マインクラフト」には、つねにプレイヤーに追従する、奇妙なスクリーン上の手が現れる。また、レゴが驚異的な人気を誇るのは、マーケティングが巧妙なだけでなく、手に仕事を与えておくという基本的な機能をもっているからではないだろうか?
 手を忙しくしておくことの重要性が理解されたことだろう。だとすれば、なぜそうしなければならないかということに思いを巡らせることができる。手に何もすることを与えず、手をぶらぶらさせておくことにはどんな危険があるのだろうか? 絶え間ない手の活動は、実際にどんな機能を果たしているのだろうか? 幼児にとって、手はどのような役割を果たしているのか、また、その役割は幼児期にどのように変化していくのだろうか? 手と口のあいだにはどのようなつながりがあるのだろうか? 手の使用を妨げられたとしたら、私たちは一体どうなってしまうのだろうか? 手の使用を妨げられたときに、私たちは不安やイライラや絶望を経験するかもしれない。そのような感情が明らかにしているのは、手を忙しくしておくことが単に気まぐれや暇つぶしの問題ではなく、身体をもつ存在としての私たちの、その核心にある何かに影響を及ぼすということである。
 そして、このことは、私たちをあるパラドックスへと導く(後に、このパラドックスをたくさん提示しよう)。先ほどの問いに対するもっとも明白な答えは、私たちは物事を行うために手を必要としている、ということである。手は私たちに仕える。手は実務的な活動の道具であり、私たちが何かを行うための手段である。手は、私たちの願いを叶えるために、世界を操作することができる。私たちは、投票したり、賛成を示したり、団結を確認したりするために挙手を行うが、それは、手がその所有者である人間という能動性の主体を表すために用いられているからである。ゾンビやフランケンシュタインの映画では、彼らは自分の目の前に手を差し出した状態で歩く。このジェスチャーが暗示しているのは、彼らの視力が悪いということではない。むしろ、彼らが純粋な目的をもっていることを暗示しているのである。
 しかし同時に、私たちの手はまさに不従順なものでもある。目、脚、耳などの身体の部分が勝手に動き出したり、何かに取り憑かれたりする小説や映画はたしかに存在する。しかし、手が独立して──身体とつながっている場合もあれば切り離されている場合もある──動き出し、(その多くの場合)殺人を犯してしまう物語のおびただしさに比べれば、ものの数ではない。映画『芸術と手術』から『死霊のはらわた』にいたるまで、ホラー映画に身体の一部分が登場する場合、悪の力に支配されるのは、脚や目や口ではなく手であることが多い。
 これらのフィクションの多くで、手は、登場人物の意識的な決断に反した行動をとる。手が殺人や復讐を行うとき、手の持ち主である人物は、あるレベルではそうすることを望んでいるが、社会やその人物のセルフ・イメージはそれを禁止している。映画『キラーハンド』でマイケル・ケインが演じた漫画家は、彼を不当に扱った人物を虐殺した犯人が、実は自分自身の切断された手であったことを知ることになる。手が誰か他の人物の意思を完全に体現している、というシナリオもある。この場合の他の人物とは、霊、あるいは移植手術で手指を提供してくれた人物であったりする。いずれの場合でも、これらの物語の不幸な英雄は、自分自身の身体と戦わなければならない。そのために、手は〔自分のものでありながら自分のものでなくなるという意味で〕分割ないし分裂をこうむることになるのである。
 ところで、このような分裂は、日常生活のなかにも蔓延っているのではないだろうか? パートナーや友人の話に集中しなければいけないのに、私たちの手は、メールを書いたり、メールをチェックしたり、Facebookのページを更新したりしたくてむずむずしてしまう。電話やタブレット、iPad依存の状況に不満を漏らす人もいる。まるで、彼らの手がそれらに触れずにはいられないかのようである。人間の能動性や所有者としてのあり方の象徴である手は、自分自身の一部分でありながら、自分の自由にならないものでもある。史上もっとも成功したカルチャー・プロダクトのひとつ、ディズニーの映画『アナと雪の女王』は、とある手──自分が望んでいないことをしてしまう手──をもつ少女のジレンマを描いている。エルサの手は、触れるものすべてを氷に変えてしまうのだ。この物語は、「彼女のなかにある、彼女以上のもの」という聖アウグスティヌスの表現を借りれば、「彼女自身のなかにある、この彼女以上の」部分を検閲し、統制し、そしておそらくは受容しようとする彼女の努力をテーマにしているのである。

 アメリカの元大統領のジミー・カーターは、2015年に自分が脳腫瘍に苦しんでいることを公表した際に、問題は「神の手のなかにある」といった。能動性がどこにあるのかと問われたとき、選ばれるのは、精神や頭ではなく手である。あたかも、手は欲求それ自体を表すかのようである。映画『ターミネーター』の最後のシーンを考えてみてもよい。サラ・コナーを殺すことを唯一の目的とするサイボーグは、体の残存部分が破壊された後でも、ぼろぼろになった手を伸ばして前に進む。その手は純粋な目的である。実際、このシリーズの続編で、致死的な未来の新技術を生み出すのは、この残った片手である。 
 能動性や力と手とのこのような結びつきは、聖書からガレノス、カルヴァンの「手の神学」からアダム・スミスの「見えざる手」にいたるまで、あるいはそれ以上に長い歴史をもっている。聖書のなかで、手は身体の他のどの部分よりも頻繁に言及されており、旧約聖書には実に二千回以上も手が登場する。初期のキリスト教では、神は雲から出て来る巨大な手として描かれることが多く、法を記す銘板はもともと手の形をしており、そこに各々五つの戒律が刻まれていたという。この「神の手」というイメージの遍在性には、偶像崇拝の禁止という観点からの解釈が与えられることがある。つまり、神は顔を見せることを禁じられていたため、代わりに身体の四肢のイメージが選ばれたのだ、という解釈である。身体の残りの部分を見ることが許されていないために、はじめて手が出現しえたというわけである。
 手は能動性を伝えるのに役立つ道具である、という考えは、古代においても一般的であった。アナクサゴラスは、人間は手をもっているがゆえに知性をもつと主張していた。他方、アリストテレスとその後人の多くは、人間は知性をもっているがゆえに手をもつのであって、手は私たちの意思を持続させる道具にすぎない、と反論した。実際、中世の語源学は、「手(manus)」という語を、手によってなされる「サービス(munus)」という語から派生したものと考えていた。これと同じ考え方は、ローマの雄弁家によって編集された修辞学マニュアルのなかでも数多く取り上げられている。彼らは、スピーチのなかで例をあげたり、句読点を打ったり、強調を行ったりするために用いられる、手の複雑な動作について詳述している。クインティリアヌスは、「要求する、約束する、呼び出す、却下する、脅迫する、懇願する、嫌悪や恐怖を示す、質問する、否定する」といった事柄を示す際の手の使い方について説明している。また彼は、キケロを読めば、彼が演説のどの時点でジェスチャー(身振り)を用いていたのかをいい当てることができるとも主張している。
 人前でスピーチする前には、指の広げ方や手の角度、身体に対する手の位置についての慎重なリハーサルが必要であった。手振りは、スピーチにおいて不可欠な部分を形成していた。キケロはこれをsermo corporis、つまり「身体の言語」と呼んでいる。これらは、スピーチの内容や構成よりもさらに重要であると考えられることもあった。古代のジェスチャーに関する歴史家であるグレゴリー・アルドレーテが述べているように、キケロの殺害後、彼の切断された頭と両手が公開されたのは、偶然ではなかったのだろう。
 手は、古代のみならず今日においても特別な価値を与えられている。ほとんど全てのSF、スパイ、アドベンチャー映画には、主人公が手動で〔=手を用いて〕コンピュータを無効化しなければならないシーンが含まれている。このテーマがきわめて頻繁にみられるのは、それが私たちにとっての重要な何かと関連があるからではないだろうか。単純に考えれば、このテーマを、機械の力が私たち人間を凌駕することに対する不安の表れとして解釈することもできる。むしろ、手は能動性の主体であり、つまり最終的なコントロールを行うものである、という信念を固辞しようとしていると考えてもよいかもしれない。
 手は能動性を具現化するものであると、あまりにも強調されている。そのため、「能動性の主体」をともなわないとみなされる行動を説明するために、手の存在が仮定されることすらある。神経学では、一方の手が他方の手と相矛盾する目的のために動き、患者の意識的な命令に従わない状態を「エイリアンハンド」症候群として記述している。ある初期の研究論文では―ピーター・セラーズが、ナチス式敬礼をしようとする右手を止めるために、何度も左手を使わなければならなかったシーンが印象的な、ある映画にちなんで―「博士の異常な愛情シンドローム(Dr Strangelove’s Syndrome)」と名づけようとしていたが、査読者がその名前を好まなかったそうである。「エイリアンハンド」と、「アナーキックハンド」──手が自分の身体に属しているように経験されはするものの、手が命令に従わない状態──はたいてい区別されている。
 エイリアンハンドの症例報告には、両手が互いに戦っているようにみえる例がたくさんある。一方の手が本を閉じると他方の手が開こうとするとか、一方の手がタバコの火をつけると他方の手が消そうとする、といった具合である。あるいは、一方の手がテレビのチャンネルを合わせると他方の手がそれを変えようとする場合もある。より不吉な例では、一方の手で人を絞め殺そうとすると他方の手がその掴んだ手を緩めようとし、一方の手で食べ物を口に押し込むと他方の手がそれを止めようとすることもある。さらに、水泳をしている際に、一方の手が患者を溺れさせようとすると他方の手がそれを抑制しようとすることもある。
 クルト・ゴールドシュタインによる1908年の創意に富んだ論文に登場する女性患者は、「私がやっている」のではなく「手がやっている」といいながら、自分の喉を掴んで左手で締め付けていた。その手をふりはらうためには、かなりの力が必要であった。彼女は、「手に悪い霊がいる」ことにすることによって、このトラウマティックな不服従を理解しようとしていた。彼女は、ゴールドシュタインに、「手がふつうではない。手が好き勝手なことをする」と述べ、あたかも手と自分という二人の人物がいるかのように感じていることを伝えた。
 エイリアンハンドに苦しむ人々が報告するところによれば、いうことをきかない手をなだめるためには数多くの戦略があるようだ。吊り紐のような身体拘束器具が使用されることもあるが、手が従順になることを期待しつつ、手に話しかけるのがより一般的なようである。ゴールドシュタインの患者は、手に平手打ちをしたり、「私のお手々さんよ、静かにしてなさいね」と、まるで子どもに話しかけるように、手に落ち着くようお願いしたりしていた。別の症例の女性は、手が自分に対して敵対的な意図を抱いていると感じていた。このケースでは、最終的に彼女がエイリアンハンドを子どものように扱うことで平和がもたらされた。また、母子関係それ自体が、彼女の人生経験においてなんらかの役割を果たしていたと考えるのは妥当だろう。
 一部の研究者は、(患者を二群にわけて)手を自分で動かしているという感覚があるにもかかわらず、手を自分が所有している感覚がない群と、ある群とを区別しようとしている。しかし、両者を区別することや、さらにそれを脳損傷の局在に関連づけて区別することは、必ずしも説得力のあるものではない。明らかなことは、その意図がどのように理解されるかは場合によって異なるにせよ、エイリアンハンドが何らかの意図をもつものとして認識されていることである。患者は、手が目的をもって何かをしていると感じており、ゴールドシュタインの患者のように、「私がやった」ではなく、「手がやった」というのである。
 手と能動性の問題に関して特に興味深いのは、エイリアンハンドの奇妙な振る舞いを説明しようとする際に、その手をもつ当人が、従順でない手を操っている第三の手の存在について考えることがあるという点である。この「悪い手」は、ある場合には、上空から患者の手の動きを誘導し、左手を右手と矛盾するように行動させる。この現象を説明するためには、分裂した脳──すなわち、「もうひとつの」脳または心──という考えに頼るのではなく、過剰な「〔自分から知らないうちに溢れ出してしまうという意味で〕もうひとつの」手について考えなければならないだろう。

 このことが示しているのは、手が所有や自律という観念から切り離し難いものだということである。私たちが何かをしようとするときには、手が作動する必要がある。だが、〔エイリアンハンドの例のように〕実際の経験的な手が私たちの意思にそむくときですら、手は作動せずにはいられないのだ。手の能動性におけるこのようなパラドックスは、現代において「自由」という観念が奇妙に変化していることにも反映されている。私たちは、自律することをつねに奨励されているのだが、その奨励は、その当の自律の可能性を剥奪するような能動性によってなされているのである。スーパーマンの物語の最新版である映画『マン・オブ・スティール』のなかで、主人公の父親は次のように語っている──自分たちの惑星では、誰もがあらかじめ決められた未来をもって生まれてくるのだが、自分は、自分で自分のことを決めることのできる自由な人間を、他の人々とは違う人間を生み出したかったのだ、と。このセリフがもつ循環性は明らかである。すなわち、この反抗の身振りにおいては、自由それ自体が使命となっている。その自由は、これから生まれてくる息子にとってはあらかじめ決められた運命となるのである。
 ディズニーの愉快な映画『メリダとおそろしの森』にも、同様のプロセスがみられる。若き王女メリダの母親は、娘の意志をまったく無視して、娘に見合い結婚するようせまる。王女は、その状況から自分を解放するために母親に呪文をかけるのだが、事態は少々おかしな方向に向かう。母親が恐ろしい熊に変わってしまうのである。映画の最後では、メリダが、父親や求婚者であふれかえったホールの前で、自由な選択と個人の尊重の重要性を訴える熱烈なスピーチを行う。しかしながら、ホールの後ろの陰には熊(=母)がいて、演説のあいだじゅうメリダを誘導していることに聴衆は気づかない。自律した行為とは、実際には、腹話術によってなされる行為なのである。
 これらの例は、「能動性と選択」という現代的な考えの中心にあるパラドックスを明らかにしている。自由であることや自分自身で選択を行うことはむしろ義務である。自由と選択は、外からやってくる命令のネットワークに組み込まれており、私たちに自由であるように命令しているのである。ここから得られる帰結は、まったくもって明快である。自律性や自己決定の価値が高まれば高まるほど、人間が行う基本的な活動のうち、意識的に統御することのできないものが病理化されるようになるのである。
 いわゆる「依存症」と呼ばれる領域が急速にひろがっていることは、ここから説明できるだろう。買い物依存症、性依存症、インターネット依存症、電話依存症といった診断は世の中にあふれているが、それらの行動は、明らかに意識的に統御できないものであるからこそ、依存症とみなされているのである。しかし、それらの背後にある真の依存症は、自律依存症、すなわち、「私たちは自分自身を完全にコントロールすることができる」という幻想への依存である。私たちがこの自律依存症に巻き込まれれば巻き込まれるほど、依存症とみなされる障害は増えていくことだろう。
 こういった傾向は、非常に強力なものとなった。そのため、今日では生きていることですらひとつの選択、つまりは私たち自身の力によって可能になるものだとみなされている。健康的な生活をこころがけ、よく食べ、運動することによって、私たちは寿命を延ばせるだろう。ウィル・スミスは、怪物に攻撃されていても、冷静に、生き延びるための選択をする。映画『アフター・アース』において、彼は肩に怪物のツメを突き立てられ、水中で身動きのとれない状態にされたときのことを語っている。自分はもう死んでしまうのだと悟り、自分の血が水のなかで泡立っているさまを眺めていた。その後、すべてがスローモーションになった。ツメを見た彼は、「ここで死んでたまるか、と思った。そいつを引き抜いて、俺は自由の身になったんだ」と語る。そして彼は続ける。「恐れるかどうかは自分次第だ。俺たちはみな信念をもっているが、俺の信念はあの日に変わったんだ」と。
 これは、強制収容所の生存者における認知世界とはまったく異なっている。スミスの演じる人物は、究極の自己決定の瞬間に合理的な選択をしたが、強制収容所を脱出しえた人々の多くは、自分たちが生き延びえたことを何らかの能力ゆえではなく、純粋な偶然ゆえのものと考えた。強制収容所に関する証言から、「恐れるかどうかは自分次第である」という教訓は引き出せないし、生存が自分自身にかかっているという教訓も引き出しようがない。むしろ、そこでは恐ろしい偶然性が働いていた。ところが、そのような偶然は、自己啓発や自己実現によって覆われた今日の世界には、ほとんど存在する余地がなくなっているのである。

 「生き延びよ、長生きせよ」という命令が21世紀にもたらしたものを、「二つの生の分離」と呼ぶことができるだろう。これ以前の時代には、この世の生(現世)があり、そして(多くの人にとって)この世を超えた別の生(来世)への信仰があった。しかし、今日においては境界線が新たに引き直されている。境界線は、地上の生とあの世の生のあいだに引かれるのではなく、地上で生きている二つの生、すなわち、純粋に生物学的な生と、現実の、命ある経験的な生のあいだに引かれるようになっている。現在、西欧諸国の政府のほとんどが、市民の生命を守る義務を負っているが、そこで問題となる生という概念は、基本的な生物学的パラメータにまで縮減されているのである。
 これは最近〔=2014年〕のアシャヤ・キングの事例をみても明らかである。この五歳の少年に脳腫瘍の診断がくだされると、彼の両親は、英国で受けることのできる標準的な放射線治療ではなく、陽子線治療を受けさせたいと考えた。陽子線治療は、他の多くの国では、特定の種類の癌を対象に行われていた治療法であった。しかし、コストがかかるため、英国ではその治療のために必要な粒子加速器をまだ開発できていなかった。英国の医師は、自分たちが提案する治療を受けるべきだと主張したが、両親は息子とともに国を離れることにした。しかし、すぐに追跡を受けスペインで逮捕された。これでは、まるで両親の方が誘拐犯である。両親が72時間にもわたって拘留されているあいだ、五歳の少年は、生まれてはじめて母親と父親から引き離されることになった。
 社会全体から抗議の声があがり、両親は幸いにも釈放されたのだが、この事件が示しているのは、二つの生のあいだの抗争である。一方には少年の純粋に生物学的な生があり、そして他方には、両親への愛着を含む、彼が有する現実的な生があった。身体の健康が他者との関係性と結びついていることは、百年にわたる生物学や心理学の(そして、いうまでもなく精神分析の)歴史により、疑いの余地のないものとなった。スージー・オーバッハが述べているように、20世紀のもっとも重要な発見は、ハード面での接続とソフト面での接続が同じものだということである。〔ハード面において〕どれほど食べ物や飲み物が与えられていたとしても、〔ソフト面において〕保育者との感情的な接触を奪われた赤ん坊は死んでしまうだろう。アリストテレスでさえ、視覚や聴覚がなくても生は存続するが、触れられることがなければ死にいたるであろうことを認識していた。しかし、このような考えは口先では同意されるとしても、現代医学という残酷な世界においては、生物学的な生は、現実的な生から容赦なく切り離されてしまうのである。
 この事例において、両親が逮捕されたという事実が意味するところは、「両親が少年にとって何を意味し、彼らとの触れ合いがどのような価値をもっているのか」という問題と、少年の生物学的な生存とがまったく別のものとして扱われているということである。少年は、英国の医師たちが正しいと考える方法で「治療」を受けなければならなかった。生物学的な生と感情的な生の重なりが認識されなかったがゆえに、二つの生は、まるでその二つを本当に分けることができるかのように、荒々しく引き裂かれたのである。多くの子ども病棟でも、同様の暴力がみられる。そこではモニターが24時間、子どもに異常がないかどうかを精査しつづけている。その一方で、親の面会は最小限に抑えられている。実際、母親はそこでは「〔子どもの命を守る〕生命維持システム」ではなく、「〔システムにとっての〕ノイズ」とみなされることすら少なくないのである。
 このような二つの生の分離は、人々の日常的な慣習や習慣においても―それほど劇的ではない仕方で―作動している。余裕のある人は、ブルーベリーやブロッコリーや穀物やゴジベリーを食べ、ジムに行き、ジョギングをするなどして、体力を維持するために多くの時間を費やすだろう。なぜそんなことをするのか。その答えは明らかだろう。もちろん、健康を維持するためである―たとえ、実際の生の大部分を、長生きのために放棄しているとしても……。正しく食べることや運動することは、喜びではなく、むしろ義務として感じられている場合もある。そのため、一方の生は、他方の生がもつ純粋で抽象的な概念のために犠牲にされる。イムラックがラセラスにいった(*注)ように、「あなたは生き方を選択しているというけれども、生きることを怠っている」のだ。

 現代におけるハンドクラフト〔=手製の品〕の流行にも、同様の矛盾がみられる。ヴァーチャルなものであふれた世界の明らかな疎外感に対抗するために、私たちは織物、編み物、模型製作、ガーデニング、彫刻、鋳掛けといった伝統的な活動に回帰せよといわれる。手を使って物をつくることは、我々が住まう非物質化された世界に対抗できるものと考えられている。それはまた、過去に存在した身体的な技術──私たちの存在を根拠づけ、私たちを満足させていたもの──の残余、あるいは新たな展開である。
 確かにそのような活動は、楽しく、また称賛されるべきものかもしれないが、自らが対処しようとしているものとまったく同じイデオロギーを有している。よくみれば、グローバル化されたブランドのマーケティングやプロモーション活動もまた、そのようなハンドクラフトの活動とまったく同じ戦略に頼っていることがわかるのである。マーケティングやプロモーション活動は、各人の独自性や創造力、自分の時間の重要性、家族や民族の伝統を継続することを強調している。自宅で手間をかけ、愛情を込めて、手でコーヒーを焙煎する個人と、スターバックスのような巨大企業は、そこでつくられるコーヒーがどれほど異なっていようとも、ますます同じ価値観を共有するようになっているのである。
 人々がハンドクラフトを行う理由について語るとき、その中心的なテーマは、現代市場のテーマとまったく同じであることが多い。つまり、その手作業は、個人の選択の重要性にもとづくものであり、自律性の感覚と喜びの探究を言祝ぎ、自己改善を目指して行われているのである。ここでの要点は、これらの活動が本質的に良いものだとか悪いものだとかいうことではない。むしろ、現代のライフスタイルの達人がオススメする手作業でつくられた特別なものと、大量生産された商品やサービスのあいだの対立は、幻想にすぎないということだ。
 もちろん、ビジネスの世界でこうした価値が陳列されるとき、その下に潜む暴力性は隠蔽されている。だが、慎重で繊細な手作業が、もっとも残酷な独裁者と密接に関係していることは無視しがたい事実である。ヒトラーの水彩画や、毛沢東の緻密な書道、そして、映画『ハンガー・ゲーム』でスノー大統領が丁寧にバラを剪定している姿を考えてみればよいだろう。個別化された手作業と自動化された破壊は、奇妙な仕方で結びついているようだ。今日最大の多国籍企業の最高経営責任者(CEO)が公にしている人物像―文化の全体を破壊しながら、模型づくりや陶器づくりを楽しんでいる人―にも、同様の論理が認められるのではないだろうか。

*注:イギリスの文学者、サミュエル・ジョンソンによる小説『幸福の探求(The History of Rasselas, Prince of Abyssinia)』

ハンズ 手の精神史
著:ダリアン・リーダー
訳:松本卓也・牧瀬英幹
定価:本体2200円+税
サイズ・ページ:四六判変型上製/240ページ
2020年11月12日 第一刷発行
ISBN:978-4-86528-295-5



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