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擬タイ日記 第1回

タイ文学研究者・福冨渉さんが初めて記す〈自分〉と〈タイ〉のこと。発達障害を抱える著者が、まともな人間に“擬態”して生きづらさと向き合うなかでタイのカルチャーがどのような影響を与えたのか掘り下げていく、自己探求型エッセイ。月1回更新予定です。バックナンバーはこちら

わたしたちはたぶん大体、みんな「擬態」している。
擬態というのは、動物とか虫とかが、攻撃したり守ったりするときに、自分をほかのものの姿に似せて、本当の姿を隠すあれのことだ。

もちろん人間は、基本的には、思いついたときに即座に身体の表面の色とか外形を変えたりすることはできない。ただ、自分が赴く場所とか環境とか、向き合う相手、あるいはそのときの気分に応じて、表情でも、立居振舞でも、口調でも、次々と変わっていく。

人間のこういう状況に応じた変化の状態を示す言葉だっていろいろある。「仮面」でも「分人」でも、もちろん個々の語が示すところに細かい差はあるが、それこそ「擬態」を人間のふるまいの比喩に使ったっていいだろう。

わたしたちが社会のなかでいっしょに生きていこうとすると、程度の差はあれどどうしても擬態しないといけない場面が出てくる。ただ大体その変身の方向性は決まっていて、わたしたちが常識とか規範とかあたりまえとか呼ぶものに沿って、自分の外ヅラを都度再構築していく。まあ要は「まとも」な人間に見えるように擬態して、ふつうの人間のフリをするのだ。

そしてぼくはこの「まとも」な人間への擬態が、ものすごく苦手である。

注意欠陥多動性障害(ADHD)と診断されたのは、2017年、30歳のときのことだ。いわゆる発達障害と呼ばれる「障害」とか「疾患」とか「状態」とか「特性」とかのひとつで、脳機能の発達のアンバランスさが、認知や情報処理や行動にいろいろな影響を与える。それが生活に支障をきたすことになる。

手元にある岩波明『大人のADHD』という本を開いてみる(この本、全体としてはとても勉強になるのだが、あとがきのトーンが突然の政治的変化を起こすのにびっくりして、全体への信頼感まで揺らいでしまう。まあでも、いまはそれはいいや)。第3章「社会生活」の「成人期のADHDの特徴的な所見」に、大体以下のようなことがらが挙げられている。

落ち着かずにそわそわする
不用意な発言が目立ち、思ったことをすぐに言動に移す
締め切りを守れない、段取りが下手で完結できない
別のことに気をとられ家事がおろそかに、家事の効率が悪い
部屋が片付けられない
おしゃべりがとまらない、自分のことばかり話す
衝動的な発言、つい叱責してしまう
約束を守れない、約束を忘れる
集中して話を聞けない

岩波明『大人のADHD』(ちくま新書)、71頁

程度はいろいろなのだが、ぼくの生活での困りごとも大体この範疇にある。特に困るのは集中力の問題と、そこから派生する締め切りの問題と、対人関係の問題だ。

集中力は、対象への自分の興味とか苦手意識とかにあわせて妙に濃いときと妙に薄いときがあって、自分であまりコントロールできない。集中できずに気持ちがいろんなところに散ってしまうと、仕事にも生活にも影響が出る。
かたや大して優先順位も高くないのに自分の好きなことには過集中ともいえる状態に入ってしまって、無闇に時間を使ってしまったりする。
そうすると当然、なにかを計画通りに進めたり、締め切りを守ったりすることが難しくなる。

こういう集中の濃淡とか衝動性は、人間関係にも影響を与える。つい話し過ぎてしまうとか、話を遮ってしまうこともしょっちゅうで、会話している相手にとっては不快なだけでなく、威圧感とか恐怖感すら与えかねない。
おまけに、場の空気を読んだり相手の気持ちを察したりするのが恐ろしく苦手で、状況とぜんぜん関係のないことをまくし立ててしまうことなんかもあり、相手の気持ちを傷つけてしまうこともたびたびあった。
おかげでひとが離れていったり、そもそも自分から人間と交流するのが嫌になってしまったりで、長く続く人間関係というのがかなり少ない。

このあたりは自閉スペクトラム症(ASD)の所見としても出てきそうなところで、ADHDとASDの合併というのも数多く報告される一方、重なる部分も多くて明確な区別は難しいらしい。
他人の気持ちがわからないということ以外にも、スケジュール通りに進められないくせに自分の決めたルールとか設定した計画に固執して、それが崩れるとパニックになったりするのなんかも結構ASD的ではないかとも思うのだが、特に診断されているわけではない。


さて、一応タイ語とかタイの仕事をしている人間として依頼をいただいて書いている文章でぜんぜんタイの話が始まらないわけだが、どうぞご寛恕を。
なんせこの文を中央線に乗りながらスマホで書いているいま、降りるべき駅をとっくに過ぎていたことに気がついたくらいで、現在進行形でいろいろ困っているのだ。

「自分、なにか変かもな」と具体的に思ったのはたぶん診断を受ける前年のことで、二度目のタイ留学から帰ってきて、パートナーと暮らし始めて、フリーランスの翻訳者として本格的に仕事をしはじめたころだ。28歳か29歳のときだろうか。

もちろんそれまでも大学院に通いながら翻訳や通訳の仕事を受けていたし、かたや留学後も大学院に籍は置いていたのだが、生活のなかにおける仕事の比重が高くなった時期で、端的にたくさんの仕事を計画的にこなすという部分で大きな壁にぶち当たった(大学院のコースワークにも割と同様の性質があったはずなのだが、そっちが割となんとかなっていたのは不思議だ)。

だがもちろんそれですぐ「あっ、ADHDだ!」とピンときたりしたわけではない。もう1段階ある。

そもそもぼくは、小学校低学年のころにいじめを受けていたのと、10代前半で家庭環境が急激に悪化したことがあって、かなり精神的に不安定な人間だった。

そのへんの詳細はいつか書けたら書こうと思うが、いま振り返ると当時のぼくは自己肯定感が異様に低くて過度な自己否定を繰り返したり、それゆえ他者からの承認を強く求めて依存したり、不要な自己犠牲のパフォーマンスをしたり、常に罪悪感や不安感を抱えていたり、極端な完璧主義で少しのミスがあるだけで自暴自棄になったり、まあ挙げたらキリがないくらいさまざまな認知の歪みや思考のクセがあって、これはこれで近くにいるひとたちに多大な負担をかけていた。

10代の後半にはそこに希死念慮も加わった。日常の小さなつまずきのたびに「もう死ぬしかない」という気持ちが湧いてきてはそれをやり過ごし、だが1週間もすればまた次の波がやってくる。
要はいま振り返れば、15歳くらいからずっと、めちゃくちゃな情緒のままで生きていたのである。

20代の半ばで、こういう精神状態を抱える人間をアダルトチルドレン(AC)と呼ぶこともあるらしいということを知るのがまず先に来る。認知の歪みをどうにかできないかといろいろなワークブックに手を出したり、たまにカウンセリングに通ったりする。
それでも恒常的な自己否定の感覚とか希死念慮には、30代になって子どもが生まれてからも(つまりつい最近まで)しばらく悩まされるわけなのだが、こういうプロセスの途中で、少なくともある程度、問題の切り分けができるようになった。

つまり、自分が感じて、一応認識しているはずの現状のさまざまな困難だけではどうにも説明のできないなにかによって、仕事したり生活したりが難しくなっている。そういう気づきがあってようやく、自分のADHDを疑い出すことになったというわけだ。

と、ここまで書くと、程度の差はあれ、こいつはさぞ面倒な人間として周囲から疎まれてきたのだろうと思われるかもしれない。すでに書いているとおり、実際にぼくは対人関係においていろいろないざこざやトラブルを起こしてきている。

ただそれは基本的にかなり近しい(とぼくが感じていた)間柄のひとたちとの関係においてだけのものであって、もっと広範で一般的な人間関係においては、いつも割と穏やかで人当たりがよく、優等生的で、きちんとした人間だとみなされているフシがあった(はず)。

それはやはり「まとも」な人間としての「擬態」がうまくいっていたからだ。同時にその「擬態」こそが、ぼくにとってはものすごく大きな負担とか、ストレスとか、疲労の素になっていたことも否定できない。
世の支配的な規範に照らしてしまえば「おかしい」としか判断されない自分の性質をどうにかこうにか無理矢理に抑えつけて、隠そうとしていた(そしてかなりの場面でそれに失敗して、追加のダメージを受けていた)。


ぼくがタイという国とかそこに住むひとたちにかかわることを続けられているのは、単にそれが仕事だからという以上に、あの空間では、擬態にかかる労力やコストがとても低いと感じているからだとも思う。つまり「まとも」な人間であらねばというプレッシャーが、相対的に弱く感じられるのだ。

「サバーイサバーイ สบาย ๆ」(気楽に)だの「マイペンライ ไม่เป็นไร」(なんてことはない、大丈夫)といった、日本語でも知られているようなフレーズが象徴するように、タイ社会がルールや規範というものに対して全体的に「ゆるく」、寛容な空間なのだというのは、よく聞く説明だろう。たしかにそういう側面もあるかもしれない。

ただ、ぼくが助けられているのは、もう少し別の、そういう「ゆるさ」のベースにあるような部分かもしれない。まあこれはめっちゃ主観的な話なのだが、タイのひとたちは全体に、他人への関心が薄いように思う。関心が薄いとはいっても、冷酷だとか非情だとかそういう話ではない。
「タイらしい」美徳のひとつとしてあげられる「ナームチャイ น้ำใจ」(心の水=思いやり)とか「微笑みの国」といった通り名とかに示されるように、基本的には優しくて、人助けに躊躇のないひとが多いということに、疑いをさしはさむ余地はないだろう。

ただその優しさみたいなものも、ある意味「条件付き」なのかなと思うときがある。こちらが助けを求めない限りは、どれだけ困っていても、向こうから手を差し伸べてくれるわけではない。つまり、だれかへの無意識の配慮とか、気を遣うとか、顔色をうかがうとか、そういうふるまいの回路が、社会としてそもそも実装されていないのではと感じるときがあるのだ。
そしてその大前提にあるのはたぶん「自分は自分」であり「他人は他人」であるという、自他を比較的はっきりと切り分ける意識ではないだろうか。おまえはおまえなんだから、なにかの必要が可視化されるまでは、そこには踏み込まないぞ、という。

こうなると「まともであれ」という不文律のハードルも、もちろん存在しないわけではないが、その高さが低くなる。そもそも「まとも」であるためには、社会やコミュニティで共有されている、ある程度統一された「まともさ」のイメージが必要であり、そのイメージに合致するように「擬態」する必要がある。
けれどもそれぞれの人間が違う存在であるということがはっきりと認識されていると、統一された「正しい」人間のあり方を提示すること自体が難しくなる。だれが「まとも」で、だれが「まともじゃない」のか判断することも難しくなる。というかそういう判断の意義自体が薄れていく。
仮に「まともじゃない」とか「おかしい」と見えそうなひとであっても、とりあえずコミュニティの一員として認識しておくようになる。

ここまで書いてきて思い出したけど、「まともじゃない」とされたゆえに、タイ社会における強い抑圧を逃れたひとに会ったことがある。あだ名を「スモール」という、作家で翻訳家のバンディット・アーニーヤー(บัณฑิต อาร์ณีญาญ์)だ。

すでに80歳を越えているかれは、人生で少なくとも4度、刑法112条の王室不敬罪で起訴されている。国王や王族や王室へのあらゆるタイプの批評を制限する、タイ国内で「最強」といってもいい政治的武器だ。2020年からの民主化運動以降も、王室改革を訴える若者たちが、不敬罪の疑いをかけられて次々と逮捕されている。
執筆した小説の内容が国王への不敬であるとしてかれが初めて訴えられたのは、まだこの法律がいまのような政治的ツールとして利用されるようになるよりもはるか前の1975年であり、ある意味筋金入りの「反王室」作家である。

その後も2003年、2014年、2015年とたびたび、セミナー会場での意見表明などを理由に王室不敬罪で逮捕や起訴されているが、どれも不起訴処分になったり、裁判で有罪判決が出るも、執行猶予がついて結果的に投獄されなかったりと、難を逃れている。
これらの司法プロセスの多くでたびたび問題とされるのが、バンディットの精神状態であり、それが直接・間接的にかれの受ける処分の軽減につながっているというわけだ。

以前、軍事政権の支配まっただ中のバンコクの、ぼくがほかの作家や編集者たちとともに登壇したセミナー会場で、かれに声をかけてもらったことがある(会場の外には数名の私服軍人がやってきていた)。
当時75歳くらいのバンディットの「日本の青年よ!」という冗談みたいな呼びかけにぼくが振り向くと、「これを訳して日本の読者に伝えてくれ」と言いながら、自家製本の自著を数冊手渡してくれた(もしかしてこれ、日本でぼくしか持っていないのでは)。

トレードマークでもある「正義はあらゆる機関の上に存在する ความเป็นธรรมย่อมอยูเหนือทุกสถาบัน」の印字がなされたTシャツを着たかれとしばらく立ち話をしていたが、その言動になにひとつ「おかしさ」は感じなかった。ぼくの友人や知人たちのあいだでも、かれを「おかしい」人間扱いするひとはだれもいない。近年のインタビューを読んでも、実に理路整然とした受け答えをしている。作品だって実に「まとも」に読める。
けれども社会的の大多数にとっては、かれは精神に異常をきたして、それゆえに幸運にも罪を逃れた犯罪者でもある。でも同時に、かれ自身に与えられた「おかしさ」の称号ゆえに、かれ自身が「おかしい」と思う法による抑圧を逃れたひとりの人間でもある。
「まとも」とか「おかしい」とか、一体なんなのだろうか。

もちろんバンディットの例にみるようなタイ社会の異様なナショナリズム意識とか王室賛美の盛り上がりとか、そこに派生する血を見る分断のさまを考えれば、タイのほうが生きやすいとかいう、単純な言い切りができないというのも理解している。あとタイの場合、コミュニティの包摂力の高さというのが社会福祉制度の脆弱さと直結しているかもしれないし。
それにそもそもぼくがかかわる人々は、バンコクを拠点に暮らす、作家やアーティストといった類のひとが多いので、ぼくの認識自体にかなりバイアスもかかっているだろう。外国人の立場で滞在して見えるものと、その場所で生まれ育つなかで見えるものにも大きな差がある。

ただ、ぼくがタイという場所にいるときに気持ちが楽になったり胃の調子がよくなったり、たくさんのひとの輪に入ったり、ひとと会話したりするのがちっとも苦ではなくなる理由を考えてみると、そんな仮説が導けるかな、という程度の話だ。

「擬タイ」というのは、説明するまでもないと思うけれど、「擬態」と「タイ」のダジャレであって、いまのところそれ以上の意味はあまりない。でも書いていくうちになにかにじみ出てくるといいなと思っている。あんまり自信はないけれど。

左右社のHさんから「タイのことについてなにか文章を書かないか」という連絡をいただいたとき、はじめはタイの現代文化を紹介する文章みたいなものを書こうと思っていたし、最初の打ち合わせでもそんな話をした。
しかしそのうちに、もっと自分のことについて書いたほうがいいんじゃないかな、と思うようになっていった(大体現代カルチャーについてなら、他のところでもたびたび書いているし)。
ひとつにはたぶん、そのころ読んでいた本やマンガがたまたまどれも「自分のままで生きる」ということを書いていたからかもしれない。

そのうちに「擬態」という言葉が頭に浮かんできた。
最近はもうすっかり、頑張って「まとも」でいようとすることも諦めつつあって、それゆえに生きるのが楽になっているところもあるし、それゆえにぶつかる壁もやはりある。ぼくのいまの暮らしで書けることいえばせいぜいタイのことと、ADHDのことと、子育てのことだけなので、それを組み合わせて日常の生活で考えたことを書けないかな、という皮算用をした。

とはいえ、ADHDのことを書くかどうかはしばらく迷っていた。べつに隠しているつもりもなかったのだが、過去何人かの知人や友人になにかのタイミングで話をしたときの反応はいずれも「集中力がないなんてみんな同じでしょ」とか「なんだそれ、自慢してんの?」とか「あーわかる、自分苦労してます系のやつね」とかだったので、わざわざこの話題に触れる労力をかけたい気持ちもあまりなくなっていた。

それに、実際にぼくとの関係で迷惑とか不快感を被ったひとたちにとっては、今更ドヤって開き直られたところで腹が立つばかりかもしれない。
ぼくのADHDの程度というのは大して重くなく、いくらぼくが苦労しているとか、逆にそれを受け入れているとか書いたって、もっと重度の困難と向き合っている方は、モヤモヤとした気持ちを抱くかもしれない。

そんな意味では、この「日記」を書く行為は、どこまでも自分のための、自分の納得感のためだけのものなのかもしれない。しかも「締切が守れない」とかいう話を初っ端にしているぼくによる「連載」である。
お気づきの方もいると思うが、ぼくはすでに某所でのウェブ連載を初回以降止めているという立派な前科があり(もちろん先方に仁義は通している)、ほかにも全然締切の守れていない原稿とか翻訳があって、その時点でやはり「まとも」な人間ではないのかもしれない。

でもとりあえず書いてみたいので、自問を続けながら書いてみようと思う。うん。

福冨渉(ふくとみ・しょう)
1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。最近は俳優ファンミーティングの通訳やMCも。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。https://www.shofukutomi.info/

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