#22 歌の「つながり」
「よびあひ」の歌
朝は市場をうろついてリュウガンを買ってつまんだあと、S氏と町中の食堂でカオピアックを食べた。
カオピアックは町のラオス人が朝よく食べる麺料理だ。注文すると、麺と汁が入った鉢が出てくる。まずコリアンダーやミントなど香菜を放りこむ。ライムを絞り、魚醬もかける。チリソースをくわえてもいい。箸とアルミのレンゲを使ってよく混ぜたら完成!
タピオカ粉がまじった太い米の麺はぷるぷるで、鶏肉などを煮込んだ透明なスープは比較的あっさりだ。香辛料や香菜のうまみと刺激が麺にほどよくからんでおいしい。
食べ終わったあと、おもての往来を眺めながらS氏としゃべっていると、女性たち4人のグループにとりかこまれた。
「逆ナンパかな」とささやいたら、 S氏が笑った。
足に脚絆、腰に巻きスカート、Tシャツの上にハッピ型の上着を羽織って、頭にはつばのないかぶり物をのせている。それら衣装の素地はすべて藍で濃紺に染めた木綿布で、かぶり物や上着には銀や刺繍で華美な装飾も施されている。銀のイヤリング、ブレスレット、ネックレスまで身につけていてなかなかキュート。これがアカの女性たちの民族衣装だ。
4人そろって少女のように小柄で細いが、わたしより年上かもしれない。彼女たちはタカラガイや刺繍で装飾した布製の腕輪を、一つ一つ取り出してテーブルの上に並べて勧める。数字など、商売に最低限必要な英単語は覚えている。
「観光客だとみると、食堂のなかにまで売りにくるんですね」と、S氏が苦笑した。日本でこんな訪問販売したら警察をよばれるだろう。
アカ語をかわしあう女性たちの声は、まるで風のさざめきのようだ。商品を一つ一つ吟味するS氏に勧めることばにも、歌うような節がついていた。
それに気づいたS氏が、英語や日本語に節をつけて歌ってことばを返してみた。彼女たちは歌で応じた。ことばそのものの意味は二の次で、メロディーにのせて感情が交換される。
「ほら、これ、ぜんぶ歌なんですよ」と、S氏が感動して声をうわずらせた。
一説によると、夜這いということばの語源は、恋を打ち明ける即興歌を男女のあいだでかわしあう「よびあひ」だという。日本の古代にあったというそんな習慣は、東南アジアの山地にも広くみられる。またモンなども、市場などある特定の場所、特定の日時に若い男女が集って互いに歌を歌いあって楽しむ歌垣という「出会い系」の習慣を伝えていて、ベトナムのサパでは観光の目玉の一つにもなっているほどだ。高地民は文字によるコミュニケーションには遠慮がちな反面、声によるコミュニケーションをみがきつづけている。
かくしてラオスの麺屋の店先で、はからずもS氏は豊穣なアカの声の世界に足を踏み入れ、歌って値切って腕飾りをいくつか買った。
アカの女性たちは気をよくし、だが勘定がすむと、次の客をもとめてあっさり去った。
ボンヤリさんなご先祖さま
むかしむかし、カミさまが「文字をあげるからおいでなさい」と地上の人たちを招いた。カミさまのところを訪ねたラフは、モチをさしだし、アカはスイギュウの皮をさしだし、そのうえに文字を書いてもらった。
その帰り道、ラフは空腹のあまり、文字が書いてあるモチを焼いて食べてしまった。アカもやはりスイギュウの皮を細かく裂き、火にかけて料理して食べてしまった。だからラフもアカも文字をもっていない。
ラフもアカと同様チベット・ビルマ語系の高地民で、ミャンマーから中国、タイ、ラオス、ベトナムに点々と分布している。どちらも自分たちの文字はない。ベトナムやラオスの高地民は、おしなべて自分たちの文字をもたなかったのだ。「#20」で述べたように、ヤオは昔から漢字を使っているが漢字は借り物で、自分たちの文字ではない。
ラフに限らず同様の神話を他の高地民もしばしば語り伝えている。いっぽうで、そこでは、盆地で水田をつくっているタイ系民族および商業や交易をおこなっている漢族など、文字をもつ人たちとの対比が強く意識されている。たとえばラフは先の神話のなかでこんなことも語る。
カミさまは、シャンにはヤシの葉に文字を書いてあたえた。
漢族はカミさまのところに遅刻したので、その場では文字をもらえなかった。そのかわりにあとでカミさまは白いカラスを遣わした。カラスはもみ殻や土や灰の上に、足でひっかいて文字を伝えた。だから漢字はカラスの足のひっかきあとみたいなのだ。
シャンのみならずタイ系民族は、タラバヤシの葉を乾燥させた貝葉に仏教の経典を鉄筆で刻んで記してきた。それにひきかえ、自分らはご先祖さまからしてボンヤリさんだったから文字もない。高地民のそんな自嘲は、平地民たちに支配され、つねに力の差をみせつけられてきた抑圧の歴史ゆえだろう。
だがその反面、誇り高くもある。自分たちは文字を食べたことで、むしろ知を血肉にかえた。だから平地民とちがって文字などに頼らなくても記憶と口伝のおかげで、学校なんか行かなくても知恵があるし、なにより自由だ。危険がいっぱいの「野蛮な」森のなかに入っていく勇気もあり、「自然」と「文化」を媒介できるのだと。
ラフの村は2000年代前半にタイ北部でいくつか訪ねた。新年の祭礼の直後には、村の守護霊を祀る祠へのお下がりのモチをごちそうになった。こぶし大のちょっといびつな丸モチは、鏡開きの日まで置いた鏡餅のようにカチコチだったから、刃物で表面をそいだり割ったりして、焼くか揚げるかして食べた。味はモチそのものでおいしかった。
モチといえば日本人は真っ白のモチを頭に思い浮かべる。だが、赤米や黒米が多いしエゴマも混ぜるから、ラフのモチは黒や褐色のが多かった。そんなことをS氏に語っているうち気になりはじめた。
「そもそもカミさまが文字を書いたモチは白かったのかな。黒かったからご先祖さまは気づかず食べちゃったのかもしれません」
「でもカミさまに黒いモチを差し出して『これに書いて』ってお願いするかな」
ごもっとも。てなわけで、やっぱりボンヤリさんに決定!
いまは赤タイ
昼過ぎには空港に行くことになっていたので、遠出はせずルアンナムターの盆地内にある染織工芸で知られる赤タイのフィエンガム村に行くだけにした。養蚕、紡績、染色、機織りといった手仕事が見学できて、ショップで織物も買える。
ショップの長老格らしい高齢の女性とことばを交わしていると、ことばのなまりを見抜かれ尋ねられた。
「タイ族なの?」
「ベトナムの黒タイの村にいたもんで」とこたえたら、
「うちも黒タイだよ」というので驚いた。
「赤タイじゃないんですか」
「ここにくる前は黒タイだったんだよ」
どおりで彼女の髷の結い方といい、訛りといい、黒タイみたいなわけだ。
帰国後に昔のノートを繰ってみて知った。なんと2009年10月にわたしはその村を訪ね、食事までごちそうになっていた。10年のあいだに観光化し、村の景観が変わりすぎていて気がつかなかったのだ。
村の成立についてもノートに記していた。
もともとベトナム西北部に接するラオスのフアパン県サムヌアに村があった。だがベトナム戦争の戦火で移住を余儀なくされ、マー河を遡上してベトナムのディエンビエンに至った。だが、まもなくその土地も捨て1971年にここに来たのだと。
赤タイは、少し奇妙なカテゴリーだ。ラオスでは一つの民族として確立しているが、わたしの解釈では、寄せ集めのタイ族からなるカテゴリーだ。フアパン県付近のベトナム国境付近にいて仏教化していないタイ族の集団をひっくるめて、フランス人行政官らがそうよんだのだろう。それは意外と古く、19世紀末の民族分布地図や20世紀初頭の行政資料にはすでに「赤タイ」は確認できる。
赤タイといえば、民族学者のあいだでは、第2次世界大戦中の1941年にフランスで刊行された『ランチャインのタイ・デンに関する覚え書き』が有名だ。フアパン県と国境を挟んだベトナム側、タインホア省ランチャインの「赤タイ」の言語、物質文化、信仰、芸術、社会制度など文化全般を詳細に記している。赤タイ研究の古典といっていい。
その序文に赤タイの呼称に関する記述がある。要約すると、「その言語や文化は黒タイに近く、赤タイとよばれる理由ははっきりしない。女性のスカートの裾の織り柄の色のからヨーロッパ人がそう名づけたのではないか」とのことだ。
だが、わたしは別の見解をとっている。ランチャインはベトナム語地名で、タイ族はムオン・デンとよぶ。デンは「赤」を意味する語と同音だから、この地名をあえて訳せば「赤いくに」だ。
また、現地のタイ語でムオン・デンにすむタイ族のことを「タイ・ムオン・デン」というが、習慣として「ムオン」の語を略して「タイ・デン」と縮める。これをフランス人が「赤タイ」とフランス語に訳し、白タイ、黒タイという大集団に対置させたのがそのはじまりだろう。
いずれにせよ、赤タイは黒タイや白タイとはちがって、当人たち自らによる呼称ではない。自ら名のるとすれば、黒タイや白タイ、あるいはそのどちらでもない小集団名がふつうなのだ。
赤もかっこいい
今ではラオスで赤タイという自称はふつうになった。他称が自称に転じた理由には、おそらくベトナム戦争が大きく関与している。
戦争中フアパン県からシエンクアン県あたりの国境付近には、爆弾が雨あられのように降り注いだ。そのため「赤タイ」の避難民が大量にラオス北部各地へと拡散した。
故郷から遠く離れた新天地に彼らが新しい開拓村をつくったとき、近辺に先住していた黒タイや白タイなどと区別するための呼称が赤タイだった。移住者たちはそう名のることで故郷との「つながり」を意識のなかで保った。いっぽうで故郷の側にとどまった人たちも、去っていった親族との「つながり」を、やはりこの呼称によって意識したのだろう。
それにしても、なぜ「赤タイ」の故地が米軍の大規模爆撃を受けたのだろうか。その大きな理由は、ホーチミンルートがそこをとおっていたせいだ。
南ベトナムへ武器、物資、食料を輸送するためのこの長大な補給路は、森が深いベトナム、ラオス国境の山岳地帯を縫うように続いていた。アメリカ軍はこれを破壊すべく、またラオスの共産化を妨げるべく爆弾を投下しまくった。
ベトナム戦争といえば、まるでベトナムだけが戦場だったかのようにきこえるが、実際にはそうではない。1965年から73年までの8年間にアメリカがラオスに投下した爆弾の総量は約209万トン。これは第二次世界大戦中にアメリカがヨーロッパと太平洋戦線で投下した量にも匹敵する。なかなかピンとこなかったわたしも、国民1人あたり1トンの爆弾が降ったときけば「む、む、む…それはヤバい!」と、なんだか納得した。
とはいえ故郷を捨てて離散した「赤タイ」がラオス側の方がベトナム側より多かったのは、爆撃のひどさだけが理由ではないかもしれない。ベトナム側とは対照的に、肥沃な未開拓地がラオス側にはまだ多く残っていたから、という人口と土地のバランスの問題もありそうだ。
さて、1998年わたしは赤タイについて調べるためランチャインを訪ねた。民族を問わず会った人たちに片っ端からベトナム語で尋ねてまわった。
「赤タイ?この辺のターイは白タイだよ」とみな笑った。
ターイとはベトナムの民族分類における公式の民族名だ。黒タイも白タイもその南側に住むタイ族集団も、ベトナムではこのターイにひっくるめられるのだが、つまり1998年当時、ランチャインの地周辺に赤タイを自称する人はいなかった。
だが2000年代に変化が生じた。そのあたり一帯に住む白タイの人たちが、赤タイとも自称するようになったのだ。
ベトナム人や外国人の研究者がたくさん現地の古老や知識人のもとを訪ねるようになったことが、その大きな要因だ。彼らがもたらした情報によって、現地の人たちは国境の向こう側にくらすタイ族の文化や歴史の「つながり」を意識するようになった。しかも、その仲間たちが赤タイと名のっているとも知った。
現地の人たちにとって、それが学者先生たちに知らされたてホヤホヤの新知識だっただけに、「自分たちも赤タイだ」と名のる方が知的でかっこよく思えたのだろう。ベトナム側でも赤タイが増殖した。
10年前のフィエンガム村
赤タイの話が長くなったが、10年前にフィエンガム村に訪ねた理由も話しておこう。このあとに登場するブンユーさんとも関連するからだ。
1990年代からずっとベトナムの黒タイの村ばかりで調査していたわたしは、2005年頃ラオス側にある黒タイの村をしらみつぶしに訪ねることを思い立った。そのころルアンナムター近辺で農学や人類学の調査をしていた日本人らが紹介してくれたのがサイ君だった。
サイ君はルアンナムターで旅行社を経営してエスニックツーリズム、トレッキング、カヤックの川下りなどを企画し、自らガイドもこなしていた。サイ君がガイドで遠出する際、いつも運転手をつとめた相棒が、今はもう現役を退いているブンユーさんだった。彼がフィエンガム村出身だったから、村に立ち寄ることになったのだ。
そのとき彼の親族のお宅で、食事に招かれた。「パット・トン」という10日に一度の祖先にお供えする忌日にあたっていたからだ。スイギュウの生肉を刻んで各種香菜や香辛料と和えた「生ラープ」をメインのおかずに、おこわを食べた。
パット・トンは黒タイの習慣だ。白タイなど他のタイ族にはふつうないから、もともと黒タイだったときけば「さもありなん」だ。しかし、フィエンガム村ができた頃にはもう大きかったはずのブンユーさんでさえ、赤タイのアイデンティティしかなかった。
国境を越えるマー河
ラオスではサイ君、ブンユーさんとずいぶんあちこちうろついた。なかでも一番印象深いのがフアパン県のマー河沿いにある黒タイの村を、川下から順番に訪ねた2011年の旅だ。マー河沿いの道路を、ベトナムとの国境にぶちあたるすぐ手前まで行った。
ベトナム側の国境には、さらに前の2002年、福田さんとハノイからバイク2台でやって来た。国境から最も近い町ソンマーのゲストハウスに宿泊した夜のことを思い出す。
夕飯をすませてゲストハウスに戻ると、キン族の主人に呼び止められた。
「(国境警備の問題上)この町に外国人は事前の許可なく泊まれないんだ。たぶん公安が事情聴取にくるだろう」
こういうときさすがキン族はよく気が利く。公安への言い訳までちゃんと用意しておいてくれた。わたしのバイクが故障し、修理に手間取っていて日が暮れやむなく宿泊することになったことにしておけばいい、と。そのとおりわたしたちは口裏を合わせた。
まもなくこの小さな町に、公安のバイクがずいぶん行き交いはじめた。
おやっ、ちょっと物々しすぎやしないか。「ゴルゴ13」出没なみのVIP待遇みたいだ。わくわくどきどきする。
だがすぐにわれわれとは無関係とわかった。たまたま国境近くで殺人事件があったのだ。結局、公安も野次馬もそちらに出払って事情聴取に来なかった。
そんなことを思い出しながら、わたしは段丘上をとおっているベトナム側の国道を遠目にたどっていた。今思えば、横にいたブンユーさんは国境など意識しなかった少年時代、マー河に沿って彼の視線の先の先へ、ディエンビエンまでいったはずだから、わたしとはまったく異なる感懐でもって同じ景色を眺めていたのだろう。
聖なるコブラの味は
サイ君たちとのフアパン旅行では、こんなことがあった。
トラもいる深い森が残るフアパン県にはいったころ、いつも沈着冷静なサイ君が不意に声を上げた。
「停めて!」
ただならぬようすに驚いて体を起こすと、車のフロントガラス越しに、なにやら群青色の長くて大きいヤツが地面にいる。
停車するやいなや二人は外へとび出した。太い木の枝や石を拾って、打つ、投げる。そして、はさみうちを試みる。
逃げ場を失ったかにみえた相手は一度身を縮めると、スックと鎌首をもたげた。
コブラだ!
まぎれもない野生のコブラの命がけの攻撃姿勢の凜々しさに、ホレボレしてカメラを探る。だがそんなわたしにむけたサイ君のまなざしは語っていた。
「おまえ、なにやってんだよ!」
『合点だ』と心で叫び、わたしも地面の石を手にとるあいだに、コブラは二人の隙をついて路肩から外の茂みへスルスルスル…。ありったけの石と棒を投げつけて追うもむなし。
その日の夕食時も、次の日も、サイ君はブンユーさんと「コブラはうまいのになあ」とくりかえし悔しさをにじませていた。
コブラを漬けた焼酎なら、何度か飲んだことがある。苦かった。肉は食べたことがない。トカゲの開き、ニシキヘビの輪切りは焼いて食べたが、生臭さが口に合わなかった。コブラの白身は香ばしいのだろうか。
さて、黒タイは龍と同じ霊性をコブラに認めている。年代記によると、ベトナムの民族学者らは14世紀だという昔、トゥアンチャウ首領ロ・レットが黒タイの居住域全域を統一した。彼には崇敬をこめてコブラの異名が与えられている。とはいえ、どんな聖性があろうと血走った男たちの食い意地には負けるのか、コブラは食べられ、酒に漬けられる。水の精をとりこんで絶倫になるのだ!
声の文化
昼前にはホテルをチェックアウトし、S氏と空港に向かった。その途中のレストランで食事をしていると、サイ君のケータイに航空機遅延の知らせが入った。
レストランで待ち時間を費やしているあいだに、6年前にルアンナムターを去るときの話になった。
そのときは空港でチェックインをすませるとすぐにプン村に戻り、養蚕の作業場で村の人たちから食事のもてなしを受けたのだった。ビエンチャンからの飛行機が上空をとおるのを確認してから空港にいけば間に合う。
その宴席で、酒も入って陽気になった村の女性が求めた。
「あんた、ムオン・ムオイからきたんなら『イン・エン』歌ってよ」
「〽笙の音と和す太鼓の響き
花盛りの森に満つ
防人を送る妹らと宴の日…
って、はじまるんですよね。ごめんなさい!歌えません」
音痴以前に歌詞を覚えていなくては歌えない。文字が読めても、歌ひとつ歌えないなんてモグリの黒タイではないか!
化けの皮がはがれ、恥ずかしくて冷や汗が出る。ビエンさんなんて即興歌をつくって歌い、楽器もうまく弾きならす。「若いころ、それでブイブイいわしてたんでしょ?」と、かつて酒の席でツッコんでみたら、まんざらでもなさそうだったものだ。
自分たちの文字をもたない高地民が文字をもつタイ族に対して卑屈になっていることは先に書いたが、実はタイ族のあいだでも文字を知っている人など20世紀半ばまで限られていた。僧侶、祈祷師、役人など一部の人を除くと、多くが読み書きとは無縁だったのだ。
たしかに黒タイも歌、物語、祈祷書、年代記その他さまざまな文書を自分たちの文字で伝えている。だが、それらを黙読する習慣はなかった。ことばとは音だ。文字を手がかりに自分の記憶を確認しながら声に出し、音にしてことばにかえ自分や他人にきかせる。そのように音読するための文字であって、われわれが本や新聞を読むときように、目で未知の知識や情報を探す読み方はしない。
カム・チョン先生やビエンさんでさえそういう読み方だ。メモをとる際はベトナム語に頭のなかで同時翻訳しローマ字表記するのであって、黒タイ文字は用いない。その意味でタイ族だって公教育が普及して国民化するまで、ラフ、アカ、モンなどの高地民と同じく、圧倒的に声の文化の住人だった。
防人たちの流行歌
プン村で『イン・エン』というタイトルを耳にし、いささか驚き、感動さえした。これはかつて首領「コブラ」を輩出したトゥアンチャウ(ムオン・ムオイ)出身の詩人ヴオン・チュン氏(1936-2012)が、1967年にベトナム語と黒タイ語で発表した歌物語で、彼とは親交があったからだ。
1960年代のラオスは、アメリカが支援する王国政府と対抗勢力による内戦状態だった。それもふくめてベトナム戦争だ。
ホー・チ・ミンらの北ベトナムは王国政府に対抗するパテト・ラオを支援し、黒タイ兵士たちをラオスに出征させた。黒タイ語とラオス語は会話できるくらい近いからだ。『イン・エン』は彼らからプン村に伝わった。
その主題はラオスに出征するインと村で帰りを待つエンの恋の行方だ。横恋慕する村の長者の息子オアンがエンの両親に求婚を申し込み、「もうラオスで家族をつくったよ」としたためたインからのニセ手紙をエンの両親に送りつけて説得し、自分との結婚を承諾させる。だが婚礼の前夜にエンは家出してしまう。まだ紆余曲折あったものの、最後はインとエンの2人は結ばれ、めでたし、めでたし。
当時この作品が出征した者と、彼らの帰りを待つ人の心をどれだけ慰めたか計りしれない。黒タイならだれでも知っている『ソン・チュー・ソン・サオ』、『クン・ルー・ナン・ウア』など恋の歌物語の古典を下敷きにした効果も大きく、黒タイの人々の心をワシづかみにした。
わたしが知るヴオン・チュン氏はトゥアンチャウの町外れの山あいに高床の伝統家屋をかまえ、晴耕雨読の生活をしていた。奥さんも校長先生だったが、息子さんや娘さんもみな学校の先生という地元の名士だった。
2007年暮れにカム・チョン先生の葬式に参列した彼は、先生の魂をあの世へ道しるべするために祈禱師が語り聞かせる弔辞のお粗末さにあきれ果て、遺族にかわって祈禱師に途中解雇を宣告し、自ら弔辞を代行して先生の魂をあの世へと正しく導いた。
わたしは歌えない不名誉を回復するためにプン村の人にそんな逸話を伝え、こう言い残してから空港に向かった。
「ヴオン・チュン翁、逝っちゃったんですよ」
交通事故のケガから回復できず前年、亡くなったのだ。
帰国後に知ったのだが、岩田慶治先生もわたしがプン村を発ったまさにその日、逝去されていた。
「ビエンさんやクルマ婆さんにお会いできたのは奇跡のようなことですね」
ハノイから800キロ、旅の終着点でS氏にそう締めくくっていただけたのはうれしい。
かの地での四半世紀をふりかえれば、いわば「古い」黒タイの人たち、つまり今のベトナムやラオスなんて国はまだなく、自分がベトナム人でもラオス人でもなかった時代のことをはっきり覚えている人たちとたくさんの時間をすごせたことは、わたしにとってかけがえのない経験だった。みなそれぞれに強烈に個性的だ。神話が現実の一部だった時代から生きてきた人たちだから、どこかお話のなかの人たちみたいなのかもしれない。
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