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文豪と〆切 ①田山花袋「今夜、やる。今夜こそやる。……」

夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話(エッセイ、日記、手紙、漫画など)94篇を収録したアンソロジー『〆切本』、続く『〆切本2』から、文豪の作品を13篇、お届けします。
師走の忙しさを一時忘れさせる、泣けて笑えてためになる(?)〆切エンターテイメントをお楽しみください。

イラスト:堀道広

「机」  田山花袋 


 書斎の机に坐って見る。 
 筆を執って、原稿紙を並べて、さていよいよ書き出そうとする。一字二字書き出して見る。どうも気に入らない。題材も面白くなければ、気乗りもしていない。とても会心の作が出来そうに思われない。もう日限は迫って来ているのだが、「構うことはない、もう一日考えてやれ。」と思って、折角書く支度をした机の傍を離れて、茶の間の方へと立って来た。
 「また、駄目ですか。」
  こう妻が言う。
 「駄目、駄目。」
 「困りますね。」
 「今夜、やる。今夜こそやる。……」
  こう言って、日当りのいい縁側を歩いたり、庭の木立の中を歩いたりする。懐手をして絶えず興の湧くのを待ちながら……。
  T雑誌の編集者の来るのが、そうなると恐ろしい。きっとやって来る。そしてどうしても原稿を手にしない中は承知しないという気勢(けはい)を示す……。「貴方はお早いんだから……。」こういう言葉の中にも、複雑したいろいろな気分が雑(まじ)る。書く、つまらぬものを書く。それが世の中に出る。批評される……こう思うと、体も心も隅の隅の隅に押しつめられるような気分になる。
  と、今度は、もうどうしても書けないような気がする。焦ゝ(いらいら)して来る。今まで出来たのは不思議なような気がする。材料も何も滅茶滅茶になってしまう。かつて面白いと思ったことも、つまらないつまらないものになってしまう。どうしてあんな種を書く気になったろうと思う……。
 「駄目、駄目。」
 「どうしても、出来ませんか。」
  妻も心配らしい顔をしていう。
 「こうして歩き廻っているところを見ると、どうしても動物園の虎だね。」 「本当ですよ。」
  妻も辛いらしい。本当にその辛いのを見ていられないらしい。それに、そういう時に限って、私は機嫌がわるくなる。いろいろなことに当り散らす。妻を罵(ののし)る。子を罵る。 「ああ、いやだ、いやだ。小説なんか書くのはいやだ。」 「出来なければ仕方がないじゃありませんか。」こうは言うが、妻は決して、「好い加減で好いじゃありませんか。」とは言わない。それがまた一層苦痛の種になる。
  ところへ、T君がやって来る。
 「どうも出来ない。今度は出来そうもないよ。」
 「それじゃ困りますよ。当てにしているんですから。出来ないと、そこが空いてしまうんだから……」
 「だって、出来ないんだから。」
 「じゃ、もう一日待つから。」
  こう言ってT君は帰って行く。
  また、机に向って見る。やはり出来ない。終(しまい)には、筆と紙とを見るのが苦しくなる。筆と紙と自分の心との中に悪魔が住んでいるように思われる。
  妻は気にしてソッとのぞきに来る。それも知れると怒られるから、知れないように……そして筆を執って坐っていると安心して戻って行く。
 「書けましたか?」
 「駄目だ。」
 「だって、さっき書いていらしったじゃありませんか。」
 「……」
 ところが、ふと、夜中などに興が湧いて来て、ひとりで起きて、そして筆を執る。筆が手と心と共に走る。そのうれしさ! その力強さ! またその楽しさ! 見る中(うち)に、二枚三枚、四、五枚は時の間に出来て行く。その時は、さっきの辛い「稼業」などと言った愚痴(ぐち)は、いつか忘れてしまっている。心は昔の書生時代にかえって行っている。暗いランプの下で、髪の毛を長くして励(はげ)んだ昔の時代に……。その時には文壇もなければ、T君もなければ、世間も何もない。唯、筆と紙と心とが一緒に動いて行くばかりだ。  


田山花袋(たやま・かたい)
1872年生まれ。小説家。97年『蒲団』で自然主義文学の地位を築いた。本エッセイでは、〆切がさし迫るなかでの妻や編集者との会話が楽しく、花袋のユーモラスな一面が覗ける。1930年没。
(「机」『〆切本』左右社、底本『東京の三十年』岩波文庫)




▼【3万部突破!】なぜか勇気がわいてくる。『〆切本』

「かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ……」
「鉛筆を何本も削ってばかりいる」
追いつめられて苦しんだはずなのに、いつのまにか叱咤激励して引っ張ってくれる……〆切とは、じつにあまのじゃくで不思議な存在である。夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話94篇を収録。泣けて笑えて役立つ、人生の〆切エンターテイメント!

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「やっぱりサラリーマンのままでいればよかったなア」
あの怪物がかえってきた!作家と〆切のアンソロジー待望の第2弾。非情なる編集者の催促、絶え間ない臀部の痛み、よぎる幻覚と、猛猿からの攻撃をくぐり抜け〆切と戦った先に、待っているはずの家族は仏か鬼か。バルザックからさくらももこ、川上未映子まで、それでも筆を執り続ける作家たちによる、勇気と慟哭の80篇。今回は前回より遅い…

▼【作家の作品】田山花袋『東京の三十年』岩波文庫



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