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声を得た彼女たちは何を語る。『覚醒せよ、セイレーン』小澤身和子さんによるあとがき公開!

メドゥーサ、ダプネ、セイレーン……女性たちの目線から神話を語りなおした短篇集『覚醒せよ、セイレーン』(ニナ・マグロクリン/小澤身和子著)。全国書店、Amazon、オンライン書店などで大好評発売中です。作品の魅力や読みどころ、背景をあざやかに伝える、翻訳者の小澤身和子さんによるあとがきを公開いたします!


訳者あとがき

小澤身和子


 本書はニナ・マグロクリン著『Wake, Siren: Ovid Resung』を翻訳したものである。
『覚醒せよ、セイレーン』(以下、『覚醒せよ』)は、二千年以上前に書かれた、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』が下敷きになっている。ギリシア・ローマ神話の登場人物たちが、動物や植物、石、星座、怪物などに変身してゆく物語を寄せ集めた、ラテン語で書かれた古典の超大作だ。欧米では、教養の一環として学校教育に取り入れられ、今でも多くの人に読まれている。これまで何人もがこの抒情詩を翻訳し、有名な神話を題材にした絵画や彫刻、戯曲などを作ってきた。『覚醒せよ』も系譜に連なるものでありながら、その立ち位置は大きく異なる。
 マグロクリンは本書で、『変身物語』のなかでも声を持たない人々に焦点を当てる。その大半は男性の神に虐げられた女性だ。そして神話ではお決まりの、“淫らでいたずら好きな、ならず者としての神々が、女性にちょっかいを出している”と解釈されてきた物語の別の側面に注目し、見過ごされてきたことを想像する––女性たちから見た物語はどうだったのだろう? マグロクリンによって声を与えられた者たちは、自分で自分の物語を語りはじめる。三十四の物語のなかには、現代の設定になっているものもあり(近親相姦をしたミュラーがセラピストのカウンセリングを受けたり、ポリュペモスがガラテイアのストーカーになったり、ドリュオペが半合成麻薬に依存したりする)、読者は否応なしに、神話が書かれた古代から現代まで、虐待と暴力が続いていることを意識させられる。
『変身物語』とは異なり、『覚醒せよ』では、一人の語り手にひとつの章が与えられている。マグロクリンは詩や歌、回想録、親子の会話、カウンセリングルームでの対話、ツアーガイドによる案内、リスト、メールなどさまざまな形式を使って書いているが、そこに共通して映し出されているのは、女性に対する社会の抑圧や、男性だけでなく女性からも植え付けられてきた恐怖という永久的なサイクルだ─これまでそんなものかと読み飛ばされたり、英雄扱いさえされたりしてきた神々による容認できない非行が浮き彫りになっていく。何もしていないのに、ただ存在するだけで、標的にされ、暴力を受け、声を奪われた者たちの怒りの叫びが、気が滅入るほど繰り返し語られる。ダプネはアポロンから逃れるために木になり、イオはユピテルに牛に変えられ、カリストはユピテルの妻ユノーに熊にされ、ユピテルに星座にさせられた。彼女たちの悲しみが入り混じった叫びは、「どれも同じような話」では片付けられない詳細を含んでいる。「独創的で心をつかむ作品であることは間違いない」が、「構造的にはバラバラだ」と「ハーバード・クリムゾン」の書評は指摘しているが、それぞれの物語には、直接的に絡み合うことはほとんどないものの、互いに呼応する余地が与えられているように思える。
 マグロクリンは『覚醒せよ』を三ヶ月で書き終えた。それは、「これまで経験したことのないような執筆体験だった」そうだ。原書を読んで聞こえてきた声をひたすら書き写していったという。「自分の中から出てきたんです。あのときのような純粋さや、異世界のような感覚は、もう二度と味わうことはできないと思います……『覚醒せよ』は、グロテスクで暴力的で、ひどく奇妙な内容のものもある。でも、私は普遍的な精神に触れているような気がしました。まるでたくさんの異なる文化や時代に存在する物語を、私を通して翻訳しているような……集合的無意識の暗く濁った深みに入り込んでいるように感じたのです」とマグロクリンは語っている。
 本書が書かれたのは、#Me Too 運動がはじまって間もない二〇一九年だ。この運動によって、全世界から告発の声があがり、さまざまな形で性暴力が可視化されたように、マグロクリンの物語も告発の物語として読むこともできる。主人公たちが語る物語は、混沌とし、露骨で、生生しく、物語の進行を示唆してくれる伝統的な物語構造がもたらすはずの安心感を与えない。むしろ恐怖を感じさせる。マグロクリンは「Longreads」のインタビューでこう答えている。「私は、彼女たち/彼らの声に言葉を乗せるという行為が、彼女たち/彼らに主体性を与える方法であったように思います。確かに、恐ろしいことが起こっているのですが、その背後には、彼女たち/彼らの物語という力がある。伝えること、話すことは、深遠な力のひとつの形です」本書の「だからがいるのはいいことなの。チームがいれば、助かるから」という一節が示すように、声という力を得た女性たちは、連帯することでより大きな力となる。マグロクリンは見事に「シスターフッド」の持つ力を顕にしている。
 また本書には、性暴力や虐待の被害者の叫びだけではなく、老いた体の変化や、時間の経過によるさまざまな変化、究極の変身である死についての独白が、生々しく綴られている。そうした変化は必ずしもネガティブなものだけではない。自然界で強く生き、恐ろしいことが起こったあとでも喜びを見出し、強く生きていこうとする女性たちの姿も描かれている。姿を変えた神が訪れ、親切に接したことで願いが叶う、心温まる物語もあれば、女性が欲望を叶える物語もある。そこには、「自分で変えられる」という力と希望が感じられる。
『覚醒せよ』は、時間、暴力、愛、物語、そしてとくに力によって、私たちがいかに変化するかを描き出している。「Longreads」のインタビューでマグロクリンはこう答えている。「変化は選択してもしなくても起こりうる……そして、乗り越える方法があるのです……すべてのことは常に変化していて、常に学ぶことがあります。『時間が人を変える』という考え方で、経験が人を必然的に変えていくということ。生きているということは、そういうことです。それに対応しながら、打ちのめされないようにしないとなりません。今、正しいことが、明日にはそうでなくなるかもしれないけれど、それが、生きているということなのです」 
 言うまでもないが、マグロクリンはオウィディウスの『変身物語』を否定しているのではない。彼女はこの物語や筆致の美しさに魅了されているからこそ、何度も読み返している。彼女が問題にしているのは、今、この作品をどう読むのかということだ。明らかに性暴力が描かれているのに、婉曲語句で表現することによってあいまいにし、“芸術”として昇華させるのはもう通用しない。それは翻訳者や教育者への問題提起とも言えるだろう。(二〇二二年には、サウス大学教授のステファニー・マッカーターが、『変身物語』の英語の新訳を刊行した。英語の新訳を女性が手掛けるのは、六十年以上ぶりだという)
 そのことを念頭に、私も一翻訳者として、性的暴行に使う言葉を慎重に選んだ。原文の意味やトーンを変えてはいないが、本書はトリガーとなる可能性のある内容を多く含んでいるため、日本語版では注意を喚起する一文を付け加えた。また、登場人物たちの名前は岩波文庫版『変身物語』(中村善也訳)を参考にしている。著者のラストネームは回顧録の和訳が刊行された際には「マクローリン」となっていたが、本書ではより英語発音に忠実な日本語表記を採用した。
 最後に、作者について─ニナ・マグロクリンは、マサチューセッツ州ケンブリッジ在住の元「ボストン・フェニックス」紙の記者で、その後九年間大工として働き、現在は「ボストン・グローブ」紙の書籍コラムニストをしながら、「ザ・パリス・レビュー・デイリー」になど頻繁に寄稿している。著作は大工時代について綴ったデビュー作の回顧録『彼女が大工になった理由』の他にも、夜明け、夏至、月など変容するものについて綴った、フィクションとノンフィクションが混合したエッセイ集『Summer Solstice(夏至)』がある。二三年秋頃にはそれに呼応する『Winter Solstice(冬至)』が刊行予定だ。
 マグロクリンはこの本を書くとき、主人公一人ひとりが乗り移ったかのようだったとポッドキャスト番組「ウィッチ・ウェーブ」のインタビューで答えている。私も翻訳するとき、まさに同じ思いで、彼女たちの声の力に身震いさえするほどだった。本書を通して、作者は問いかける。「あなたはどこまで知りたいですか?」と。私たちはもう背を向けることはできない。
この本が、自分自身と世界についてより深く考える機会を与え、人類が何千年にもわたって取り組んできた問題や、生きることの意味を照らし出してくれることを祈りながら。

小澤身和子(おざわ・みわこ)
東京大学大学院人文社会系研究科修士号取得、博士課程満期修了。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士号取得。「クーリエ・ジャポン」の編集者を経て翻訳家に。訳書にリン・ディン『アメリカ死にかけ物語』、リン・エンライト『これからのヴァギナの話をしよう』、ウォルター・テヴィス『クイーンズ・ギャンビット』、ジェニー・ザン『サワー・ハート』、カルメン・マリア・マチャド『イン・ザ・ドリームハウス』、デボラ・レヴィ『ホットミルク』など。共訳書にカルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』。

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ニナ・マグロクリン/小澤身和子訳『覚醒せよ、セイレーン』書影。目が水仙の花に、髪が月桂樹、フクロウの羽、クマの手、蛇になり、赤い矢羽の矢が刺さった女性が涙を流している。装画は榎本マリコさん、装幀は柳川貴代さん。


覚醒せよ、セイレーン
ニナ・マグロクリン/小澤身和子訳
四六判並製368ページ/本体価格3000円+税
ISBN:978-4-86528-367-9
2023年6月5日より、全国リアル・オンライン書店・Amazonにて
発売開始


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