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文豪と〆切 ③吉川英治「こんなぼくぢやなかつたのだけど」

 

夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話(エッセイ、日記、手紙など)94篇を収録したアンソロジー『〆切本』、続く『〆切本2』から、文豪の作品を13篇、お届けします。
師走の忙しさを一時忘れさせる、泣けて笑えてためになる(?)〆切エンターテイメントをお楽しみください。

イラスト:堀道広

「手紙 昭和二十六年」  吉川英治

 河上君 今日 じつは自分が社に伺ふか 又は晋でも頼まうか いろいろここ数日間 考へてゐたのだけれど 手紙にしました 手紙でないと 君には 面とむかふといつもなかなか云ひ切れないものだから……

 小説

 どうしても書けない 君の多年に亙(わた)る誠意と 個人的なぼくへのべんたつやら 何やら あらゆる好意に対しては おわびすべき辞がないけれど かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ 反対に 近頃しきりに 無常観じみた気もちやら 現代に滅失を覚えるやうな 弱い心の芽ばかりが 吹いて 責任の重い小説欄ヘタツチするやうな意気はすつかり萎ンでゐる

 こなひだ笑談に 年のせゐをいつたけれど 考へてみると六十だ 笑談でなく ほんとに生理的でもあるらしい

 健康も 妻に 余り正直にいふと心配するから いい、いいとは云つてゐるけれど  実さいは 週期的なゲリはなかなかなほらないし まつたく 老いたりを時々感じてゐる始末

 何よりは 新聞を書く内容の燃焼が欠けてゐる これは 事実なんだ だから ちつとも 構想も用意もできない こんなぼくぢやなかつたのだけど 此頃は 身辺雑事だの机辺の何やかやのウルサ事にもすぐ気負けして片づかない 何もかもほつたらかしが山積してゐるなど 時間的にも とてもほかへ今以外の仕事はできないのです

 あはせる顔がないが 次に会つたらお詫びする どんなにでも 君に万謝を以てしても足らない気もちで 百拝するしかない

 この間から いや先々月 先月中からも 女房と 困つた困つたばかり云つてゐるうちに つい先頃は、高木さんを遠路までを煩はせてしまつて 進退谷まる思ひだけれど どうか御愍恕(びんじょ)をねがふ

 おゆるしをたのむ

 更に 切にその事に就て 私からもおわびするからといふので 山妻にこれをもたせました 悪しからず悪しからず         拝具 

二月二日                         英治 

  河上英一様 侍生


(『〆切本』掲載)

吉川英治(よしかわ・えいじ)

1892年生まれ。小説家。35年から朝日新聞にて連載された『宮本武蔵』は新聞小説史上かつてない人気を博した。本書の手紙には読売新聞の新聞小説を書けないことにすっかり自信を無くし、高木という編集局次長までやってきたことが書かれている。1962年没。

*p44 手紙 昭和二十六年   『吉川英治全集 53』講談社


▼【3万部突破!】なぜか勇気がわいてくる。『〆切本』
「かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ……」
「鉛筆を何本も削ってばかりいる」
追いつめられて苦しんだはずなのに、いつのまにか叱咤激励して引っ張ってくれる……〆切とは、じつにあまのじゃくで不思議な存在である。夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話94篇を収録。泣けて笑えて役立つ、人生の〆切エンターテイメント!



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「やっぱりサラリーマンのままでいればよかったなア」
あの怪物がかえってきた!作家と〆切のアンソロジー待望の第2弾。非情なる編集者の催促、絶え間ない臀部の痛み、よぎる幻覚と、猛猿からの攻撃をくぐり抜け〆切と戦った先に、待っているはずの家族は仏か鬼か。バルザックからさくらももこ、川上未映子まで、それでも筆を執り続ける作家たちによる、勇気と慟哭の80篇。今回は前回より遅い…

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