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育メンの寄稿に思うこと

先に伝えておくと、育メン批判では一切無い。

最近、facebookやツイッターで、旦那さんが奥さんに変わって家事育児をやってみたら、凄く大変だった、といった寄稿をよく見る気がする。
実際そこまで多くないのかもしれないけれど、私が気になって読んでしまっているのかもしれない。
その多くは、
育児と仕事の両立ってヤバすぎてとても1人では出来たものじゃないと痛感したので、今後積極的に家事育児に参加します。
みたいな締められ方をしている。

読み終わった時、大概は、ワーキングマザーをしている身として、何か勝ち誇った感覚というか、やっと分かったかとほくそ笑むような、上からの感覚が浸み出す。そしてどこかの奥さんに、良かったねいい旦那さん持ったねと心の中で声を掛け、何なら自分の所の旦那にも見せようかな、という気持ちにも駆られる。

けど、ひとつ。なんだかしっくりこない部分がある。

大抵の寄稿に、家事育児分担の解決策として登場する、名もなき家事を見える化することで、2人の分担を出来るだけ半分にしようとする、傾向についてだ。

実際に、例えば使ったタオルを定期的に新しいタオルと入れ替えるとか、ハンドソープ入れ替えるとか、回覧板にハンコ押して回すとか、名もない家事は多い。

一見、こんな小さなことでもきちんと分担することで、奥さんの見えない負担を減らしてあげる、という意識の高い旦那さんの解決方法にも見える。

けれど。
私から言わせれば、形にすることで、それまで気にしていなかった作業を、負担と名付けられ、それをやらされていた、と考え直させられる方が、よっぽど負担なのではないだろうか。
そもそも負担だと思っていない。もっと言うと、家族のためにやってあげているなんて自覚もない。

だから、こういうやり方を見たからって安易に真似て自分達に取り入れようとすると、逆に喧嘩の火種を作る以外の何でもないのではないかと思う。

無自覚にこなしてるほうが楽ってことは、結構あると思っている。それが、生きていく上で逃れられない作業なら尚更だ。

補足しておくと、逆に不平不満がある場合なら、形にするのもいいと思う。なんかおかしくない?なんか納得いかないんだけど?そういうもやっとした気持ちがあるなら、その根源を探して形にして、お互いに突きつけ合うといい。
たまに、衝撃なほど全てが奥さんに偏っている夫婦も確かにいる。言葉の応酬だけではラチがあかないのは、男女の共通言語はとても限られているからだ。

ということで、特に何という事もなく、私は自然な手つきで今日も洗面所のタオルを変える。
そこになんの文句もないし、自覚さえない。いつのまにか、自動で行われているのにも等しいくらい、無意識化することで、私自身も楽に家事を済ませている。