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変わっていくことへの降参について



朝から予定を盛大に勘違いし、割と早い時間に鎌倉駅のカフェにいる。
そもそも日が違うほどの勘違い。あぁ、あたしってw

でもそのお陰でまだ行き交う人も少ない清々とした時間にカフェにいる。
なんていい日なんだろう。

桜がここそこに咲いている。山にも、街にも。
夜になっても明るく感じるほどのこの季節らしさを愛している。
湿った雨の匂いと土や草の匂いを鼻から、肌から吸い込む。
楽園は遠くのどこかではなく、自分の中にあるんだなぁと感じる。

観光客の方たちが楽しげにカメラを向け合って笑っている。
ウキウキとしている感じが漏れ出ている。
ここに来るまでに、どんな人生を歩んできたんだろう。

苦しさに出会ったことがない人はいないだろう。
悲しさに出会ったことがない人はいないだろう。
日々虚しさややるせなさを感じたことがない人はいないだろう。
怒りを感じたことがない人はいないだろう。

同時に
喜びを感じたことがない人はいないだろう。
つい微笑んでしまうことがない人はいないだろう。
他人に優しくされて心が温かくなったことがない人はいないだろう。

気づいていても、いなくても
誰もが、この地球上の人類という同種の私たちは
さほど大きな違いはないのだろうと思う。

だからこそ
誰かの、わたしの体験が
誰かの、わたしの力になり、胸に響き、心が震える。
わたしを重ねて勝手に勇気となり、勝手に元気が戻ってくる。
わたしにも出来るかもしれない、わたしだけじゃないないんだと受け取る。

劣等感も無力感も消そうとしなくていいのだと思う。
自己肯定感を上げようと躍起にならなくていいのだと思う。

けれど
その感覚を握っていることに気づいたら
その手を緩めてみる。
そうすると「あれ?案外握っていなくても大丈夫そうだぞ」と気づくかもしれない。
そしてそれを何度も何度も気づいたら緩めるということをこっそり繰り返していったら
ある日ハッと気づく。
いつの間にかわたし、手を離していることに慣れているじゃん!!!!!!!

消えたのではなく、そこに劣等感も、無力感もあるけれど、常に漂っているけれど「うん、あるね」とOKサインを出していることに気づく。

そしてまた握ったとしても、手を離すことがすんなり出来てしまっているわたしに出会える。

自分のことも「これがわたしだ!」と固定して定義できないという矛盾。
常に変化していることに降参できる清々しさ。
この地球上で変わらないものなど一つもないという真実に心ごと気づいた時の小さな革命。

咲いている桜が散るように、天気が変わるように、自然は常に変わっていく。

自然の一部である私たち人間の「わたしは変わらない」という思い込みに気づく。

「そりゃ変わるだろ、それが自然の理だわ」と認めちゃうってチャレンジでもあるけれど、自分の見えてなかった扉が開いてしまうキッカケにも大いになると思う。

私とわたし以外のすべてに、ありがとうという気持ちが湧いてしまって思いつきで書いてみましたー。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

また、書いていきます。

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