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読書:天正遣欧少年使節 松田毅一 後半

ヨーロッパで大歓迎された一行。印象にのこったエピソードだけ書き出してみます(主に食べ物の話?)

とくに驚かない少年たち

ヨーロッパの壮大な建物などをみて、さぞ驚いたはず!しかし、どうやら少年たちそういうものを見てもとくに顔にはあらわさなかったそう。でも本当は心の中では驚いていて、あとで子供同士やパードレ(伴天連)と話す時はキャッキャしてたらしく。あまり人前では感情を出さない日本人らしい態度。

大喜びのフェリペ2世 初めての日本語

一行を喜んで迎えたスペイン・ポルトガル王のフェリペ2世。少年たちが着ている着物に王は興味津々。絹の地紋のある白地に、鳥や花などを染め抜いてあって、金色で刺繍がしてあったそうです。
日本語で手紙を読んでほしいとのことで、修道士ロヨラ(日本人)が読むと、文字を上から下へ、右から左へ読んでる???と超不思議がられる。さらに、同席した王子や王女は初めて聞いた日本語に笑いが止まらなくなり大爆笑。失礼だな〜とおもったけど、家庭に恵まれなかったフェリペ2世は笑うことが殆どなかったと言われている(ほんとか知らんが笑。)そこにいた人たちはみんなこの情景に大喝采で大受けだったそう。

フェリペ2世

フェララ公夫妻の暖かいおもてなし

食事にはいつも赤や白のカーネーションやその他のお花をふんだんに飾ってくれた公妃。事前から少年たちのご飯の好みを聞いてたのか、4人が食べれそうな野菜と果物ばかりにしてくれた。

さらにフェララ公妃は「帰ったらお母さんに渡してね」と金銀製の造花を一人一人にプレゼント。これにぐっと来るのは私だけでしょうか。

ジュリアンが発熱した時も、領内最高の医者をよび、1時間ごとに使者をつかって様子を見たり、自らもお見舞いにきてくれたフェララ公。暖かいおもてなし嬉しい・・

少年たちとご馳走

「彼らは葡萄酒は飲まないで「お湯ばかり」のんでいた。」

食材について資料が少しあって 例えば 使節用と思われる6月22日の夕食の品目
魚類、菊芋、さくらんぼ、麝香梨(モスカルディーニ。ジャコウタコの事?)、オレンジ、大レモン、白大葱、白瓜、まりな種瓜、ういきょう、その他未熟な葡萄粒、モニヤガ(?)、パセリ、乳香など。

随員用(と思われるものには、)
魚、蟹、鮫、雑魚、梨、生卵、鮫の卵、キエッペ(?)、塩、砂糖、アーモンド、サフラン、肉桂、胡椒粒、はちみつ、黒葡萄、オレンジ、瓜、さくらんぼなどなど

なかなか豪華そうだが口に合ったのかは謎

カタリーナ公妃のお弁当

一行が別れをつげたとき、一人一人に芳香のする手袋と旅費を渡し、国境近くまで来ると騾馬が追いついてきて、使節たちに 赤鯛、したひらめ、かれいの「エムパーダ」とその他魚のあげものを持ってきてくれた。食べ慣れてない肉でなくて魚にしてくれて心遣いが嬉しい。でもフロイスの本には「日本人は魚のフライはあまり好きではない」と書いてあり・・子供たちの口に合ったかはわからない・・

帰りたい

毎日、接待、ご馳走、そして移動。使節と行動を共にした人いわく、息つく暇もありませんでした、とあり、さすがに疲れは限界を超えていたよう。誰かしら代わる代わる体調を崩していた。4人は「来れたのは嬉しいけど、日本に帰りたい」「静かなところにいきたい」といってたらしい。

もし生きて帰れたら・・

ヴェネツィア大統領宛に書いた使節のお礼の手紙が残っている。
「万が一、生きて帰れたら、ヨーロッパで見聞きしたことを日本のみんなに伝えます」 万が一帰れたら。日本語の手紙はロヨラが書いたようですが彼は帰りのマカオで船を待っているときに27歳で亡くなった。

その後

帰路についた頃、彼らはすでに青年になっていました。インドでヴァリニャーノと数年ぶりの再会。マカオに着くと、日本では伴天連追放令が出され、自分たちを送り出したキリシタン大名 大村純忠と大友宗麟がすでに亡くなっていることを聞いて落ち込んでしまいます。

その後の彼らの運命は、なかなか辛いものがありますが、棄教したミゲルは「ヨーロッパのことを懐かしく話していた」そう。ジュリアンも潜伏中に書いた手紙にヨーロッパでのおもてなしの感謝が書いてあります。処刑場へ入ると「私はローマへ行った中浦神父です。」と言ったと言われています。きっと喋り飽きるほどみんなにヨーロッパの話を聞かれ話してきたと思います。人生を変え歴史に残る経験をしてきた4人に興味は尽きません

https://www.amazon.co.jp/天正遣欧使節-講談社学術文庫-松田-毅一/dp/4061593625

*一部、クアトロラガッツィの本を参考にしました*



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