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飛んでいったTシャツと思い出

人は時折、万が一のときに備えて保険をかけなければならない。寝坊しないように何個も目覚まし時計をかけておくのも、地震に備えて持ち出し袋を作っておくのも、「もしも」のための行動である。

昨日のわたしは「保険」の大切さを心から痛感した。干したはずの夫のTシャツが、ベランダの物干し竿から消えていたからである。一緒に洗濯したわたしのTシャツは無事だったので、彼のものだけ飛んでいったらしい。なぜ「洗濯バサミ」という保険でハンガーをしっかりと止めておかなかったのかという後悔と、高い板壁を乗り越えて服が飛んでいくなんて信じられないという疑念。物干し竿からベランダの板壁までは少し距離があるというのに。

そのTシャツは昨年の結婚式のとき、ハワイのABCストアで買ったものだった。価格こそチープだったけれど、さらりとしていて心地よく、普段から部屋着やパジャマとして着ていた。Tシャツはレインボーの絵柄で、胸元に"ALOHA"とプリントされている。観光地らしい大変ベタなデザインだが、ALOHAという言葉には「愛」や「親切」という意味があると神父さんから教えられたばかりだったので、見つけた時は「これにしよう」と即決してしまった。夫も「同じのにしたい」と言うので、わたしがピンク、夫はグレーを選んだ。この歳でおそろいは恥ずかしい気もしたけれど、旅の思い出は少々やりすぎな方が楽しい。

そんな風に購入した「ALOHA」Tシャツは、部屋着やパジャマとして私たちの体にいつもぴったりくっついていた。それを着たままアヒポキやロコモコ、ガーリックシュリンプを作っては食し、またいつか遊びに行こうと話しあってはパジャマにして眠る。結婚式の思い出とハワイへの鐘形が刻み込まれたTシャツは、衣服としての存在価値を超えていた。というと言い過ぎかもしれないけど、本当に大切なものだった。

まさか!と思い洗濯機の中を覗き込んだり、クローゼットを引っ掻き回すこと1時間。夫のTシャツはまるで最初から存在しなかったように部屋から消えてしまった。神隠しならぬ服隠しにあったような気分で呆然としていると、夫が「やっぱり飛ばされたんじゃない?」と言い、外を見にいった。時刻はすでに23時を超えている。わたしもスマホのライトを片手にベランダから真下を捜索するも、闇夜に飲まれた世界にグレーのシャツは落ちていない。

帰ってきた夫は目に見えて意気消沈していた。普段大抵のことには動じない彼が「大切なものなのに」とぶつぶつ言いながら洗濯機やクローゼットを行ったりきたりしている。その姿を見てわたしは心苦しくなった。本当に飛ばされたのなら、Tシャツはもう戻ってこないのかもしれない。しかし、下着や靴下と言った軽いものならまだしも、そんな大きなものが飛んでいくなんて。

にわか信じ難かったわたしはTwitterで検索をかけた。すると何人かが「東京は風が強かったせいかシャツが飛んでいってしまった」「下の階の人のベランダに服が落ちた」などと呟いていた。一方で「上の階の人の下着が落ちてきたから捨てた」なんていうツイートも。そうか、捨てられる可能性だってある。善意ある人がマンションのエントランスにかけたりコンシェルジュに渡してくれたりしても、そんな可能性は何%だろう?わたしは絶望した。

ネットで「ハワイ ABCストア  Tシャツ」と検索して、同じデザインのものが売っていないかを見て回る。同じものを買えたとしても、思い出という付加価値がついてしまったものとは別物だ。夫は「さゆりちゃんのせいじゃない」と言いつつも明らかに拗ねている。楽しかった記憶の一部が飛んでいってしまったようでわたしも悲しくなった。

そして今日の朝。いつもより早く目が覚めたので、すぐにベランダから真下をのぞいた。一階の人の庭と、緑々しい草木。どこにもALOHAのAなんて無かった。やっぱり飛ばされてしまったのだろう。洗濯バサミで止めておかなかったわたしへの罰だ。そんなとき、清掃員のおじいさんがホウキを片手に歩いているのが見えた。もしかしたらおじいさんが見つけているかも。起きてきた夫に声をかけて、わたしはすぐに家を出た。

マンションの裏側には大きな公園が隣接している。おじいさんはその公園の前をホウキではいていた。「すみません」と声をかけて、グレーのTシャツを見なかったかと問いかける。おじいさんは「ありませんでしたねえ」と言って、困ったように笑った。思わず肩が落とす。やっぱり階下の庭に落ちて捨てられたのかもしれない。

ありがとうございました、とお礼をし、ふと右側の低い植木に目をやる。一瞬だった。植木の緑とは対照的な「グレー」色の何かが、丸まって葉っぱの上に着地していたのだ。一瞬、生理用品を隠すような深いグレーのポリ袋に見えたけど、それはまさしく布で、手に取ると丸まった布がTシャツに形を変えた。現れた"ALOHA"という陽気な文字に「あ、ありました!!」とわたしは声をあげる。昨晩から渇望していたTシャツとの再会、興奮のあまり旅先で買った大切なものだとおじいさんに伝えた。

朝っぱらから落ちたシャツを片手に話し続ける怪しい女を前に、おじいさんはニコニコと「良かったですね、とてもラッキーでしたね」と言ってくれた。その笑顔と話し方はまるで和製ダンブルドアのようにおだやかで、知性に溢れていた。

和製ダンブルドアに何度もお礼をし、わたしは家路を急ぐ。Tシャツはハンガーがついたまま家のベランダから何十メートルも先の植木に飛ばされていた。こんな距離まで飛ぶなんて。見つかったのはラッキーだったと安堵する。帰宅すると夫は狂喜乱舞し「よかった...」と噛み締めるように呟いた。

たかがTシャツされどTシャツ。思い出のハワイの一部は、私たちの元に残ることを選んでくれたらしい。これからは風が吹いていてもいなくても、絶対に洗濯バサミで止めよう。「もしも」の場合に備える癖をつけるのだ。不注意で大切なものを失わないために。

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