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コミュニティは、課題を解決しない。

先日めっちゃロックな記事を拝見しました。ロック、と安易に表現してはいけないのかもしれないけれど、とにかくすごくよかった。

コミュニティ関係のひとが、よく私を掴まえて「僕こんなにコミュニティが好きで、人の集まる場をを作りたいと思っていて」と2〜30分、一方的にしゃべってきます。もう途中から、傾聴者を私から壁にバトンタッチしたいぐらい。その時点でコミュニティ云々以前の問題じゃないのって思う。相手のことを慮るコミュニケーションを取ることよりも、自分のすばらしさ、がんばりを披露したいだけなんですよね。本当に闇が深いと思います。
東日本大震災以降、「絆」とか「コミュニティ」が絶対善みたいになっているんですよ。でも世の中に絶対の善行なんてあるわけがない。コミュニティができたらできた分、そこに壁ができるし、コミュニティの外にいる人をどうするか、意識が向かなくなるリスクもある。つまり何をやってもリスクがある。コミュニティというものは破壊行為と表裏一体であることに対して、そのことへの畏怖や謙虚さが消えてしまっていて。

コミュニティと呼ばれる集団が多様化した現代では、とにかくみんな「コミュニティ」があれば「なんとなく良さそう病」になっているなと、私は思っています。

確かにコミュニティは自分を高めてくれたり、できないことができるようになったり、自分の成長につながる効果がすごくあると思います。そういう目的ならたくさんあったらいい。自分の居場所があちこちにあることは良いことだなと思っています。

だけど、コミュニティは課題を解決しない。そういう前提に立てる人がコミュニティを作れるのだろうなと考えています。

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「コミュニティが必要」という怖さ

これが私のなかで確信にかわった出来事は、昨年のこと。

近所で一家心中の事件があった。

朝からサイレンで騒がしかった近所で、何があったのかと思ったら、その日の夕方にニュースになっていて、そこで私は初めて知った。

そこで初めて知る程度に、その家族のこともしらない。こどもも知らない。どんな人だったのか、顔もしらない。

ただ、この道を子どもたちが学校に向かって歩いていたのだろうな、もしかしたらすれ違ったのかもしれないなと思うと本当に胸が痛かったことは確かだ。

私が住む文京区は、みなさん心優しい人が多いので、Facebookでは色んな人が悲しんでいた。

そしてみんな一様に「コミュニティがあれば」「コミュニティが必要だ」「今あるこの場所に足を運んでくれていたら」みたいなことを書いたり言ったりしていた。

でもそういう人が、コミュニティで何かを解決してきた様子を見たことはないし、まさに田中さんのご指摘の通り、自分が人にちやほやされている感でいたいのでは?とか思う人も確かにいるなと思う。(まあそういう人が主催していたところで、所属メンバーがそれを楽しんでたらよいので、それはそれでいい)

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正直、「コミュニティに足を運べる」人は、もう行動ができている人だ。

誰かに繋がりを求められる人だし、

言葉足らずでも何か苦しいことを言葉にしようとすることができるし、

人の話をすこしばかりは聞くことができる。

そうした状態になるまでが大変なのだ。

そうした状態に変わるという意識を持つという選択肢すら、持っていないかもしれない。

本当に自分が苦しいとき、その苦しさを話そうと思えば思うほど、他の人よりはマシなのかもしれない、私は考えすぎかもしれないと思って、もう吐露しなくなるだろうし、

コミュニティの中でやり取りをしていると周りは幸せそうに見えるし、

コミュニティによってはマウントされたりもする。「うちも大変よ〜」みたいなことを言われたらもう何も言わなくなるだろう。

そうやって、まさに先の記事のように、コミュニティだから、壁があるのだ。

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生きづらさはある、しかし見つけられない

私が住んでいる文京区は結構意識高い区という印象で、高学歴共働き家庭が多いのだなという感じだけど、一方でわりと人間関係の近さも垣間見られる、なんとも不思議な区だと思う。

エリアによっては下町感がある場所も多くて、人情にあふれた場面を垣間見ることも多い。

子育てサークルの活動も結構盛んで、地域活動もあちこちでまだまだ活発だ。

だけど、そんな区だからか、見えにくい生きづらさを垣間見る。

文京区でも不登校は増え続けています。特に中学校の不登校の出現率は、都の約3.8%、国の約3.3%に比べ、5.38%と大幅に高くなっています。

この話は結構区の関係者とか、こどもたちに近い仕事をしている方に話を聞いてもすごく耳に入ってくる。

大学での話も聞く(今日もその話を関係者としていた)。

目立ってはないけど、確実に「ある」。

確実にあるということを、見つけられるかどうか、はイコールじゃない。

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ソフトアウトリーチのすすめ

じゃあお前は何をするのだ?と言われるかもだけど、ソフトアウトリーチを少しずつしないとな、ということを考えています。(造語です、すでにあったらごめんなさい)

アウトリーチ自体が、福祉サービスの対象者になる人の場所に出向いて働きかける活動のことをさす言葉なのですが、家に行っても困りごとはみつからない。困っていることを教えてくれないかもしれない。

ソフトアウトリーチは、対象者の手前の生活圏内に潜みながら、対象者と関係をつくるスタイル。

たぶん、先の記事にある喫茶ランドリーもそっとその地域にあるからある意味近いかもだし、例えば、コミュニティナースもそうなんだと思います。
(※喫茶ランドリー自体はアウトリーチ目的は一切ないとおもうので、そこは誤解なきよう。たぶんそういう文脈でコミュニティ系の人が消費したがるのだろうと思う)

(まだ読みかけなのですが、コミュニティナースの「コミュニティ」は、地域コミュニティに入るというニュアンスのコミュニティなんだな、と読んでて解釈。だから先述の「コミュニティ」と意味が違う。)

なんとなく出会えること、そこで日常の延長でやりとりがあること、信頼関係が徐々に紡がれて、初めてお互いのことがわかる。

スピード感が重視される現代において、こんなにスローな活動は、普通にやってたら事業をつくるがわもときどきジレンマを感じるときがあるんじゃないかなと思うのだけど、冒頭記事のグランドレベル(喫茶ランドリー)の田中さんのように、まずは自分がほしいと思う場をつくるから、あり続けられるのだろうなと思います。

自分たちのやりたいことと、社会のためにやりたいいことのベクトルの置き方が逆なんだな。私はここを完全に、自分で良かれと思うことを、勝手に強く開いているだけなんです。人に良かれと思ってもらえることを先に立たせて、自分の興味に蓋をしてしまうことは、私にはできない。常に自分の手を汚して自分で自分の手綱を握り続けていないと、軸がぶれて、何のためにやっているのわからなくなってくるんだよね。それは他のことでも、みんな同じ。 ( https://10c89.com/1726/ )

コミュニティナースのみなさんも、知る限りだと、その「入り込む」場にいることを楽しんでいる様子を感じますもんね。

自身の取り組みも、もう少ししたら公開できるかもなので、そのときにまたお話します。可能な限り書くと、リードユーザー発掘も、このソフトなアウトリーチが必要かもな、ということを考えているよ、という感じです。


まとめ

1つには、コミュニティは課題を解決しない。何かを解決するふりをして、自分がちやほやされるためにコミュニティを作ろうとしても意味がない

2つめ、ただあり続けられることで、誰かと繋がれるソフトなアウトリーチがこれから見えない困りごとに寄り添う可能性があるかもな、ということ。


最後に、冒頭の記事から引用。

リノベーションも先ほどのコミュニティ好きの人の話と同じで、絶対これは正しいといった絶対善の価値観が横行していたり、きちんとした批評がない。これだと、文化にならないんですよ。建築も映画も音楽もみんなそうですけど、つまらなかったとか、よくなかったと批評や批判があるじゃないですか。やらないよりはやったことに価値がある、だからやったら絶対良い、で留まってしまうことは、あまりに思考停止だなって思う。

お互いのマスターベーションを良いよねって言い合っているうちは、本質は根付かず、ふわふわとオナニストムーブメントが続くんじゃないかと。もちろんリノベーションやコミュニティ作りは必要なことだけど、何とも気持ち悪い状況です。

そう、別に感情的な好き嫌いではなくて、絶対善の価値観の横行は、本当に何も意味をなさないよなと思っていて、そういうのが多いんだよなーと思っているので、じゃあ何をするかといったら、新しいことを提案して、その哲学を発信するしかないのだよな、と思って明日もお仕事がんばります。

明日は久しぶりに主催でワークショップです!


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