ついに仕事やめることになりそうです

昨日、番組のプロデューサー二人と話をして、この番組でのADとしての仕事を9月末でやめることになった。

外部スタッフとして派遣されているという契約上、やめるときは三か月前に申告しなければいけないのが慣例となっている。しかし「年齢的に次のキャリアに移りたいなら時間がもったいないだろうし、9月末でいいよ」と言ってもらい、予定よりも早くやめることになった。

私が所属している派遣元の会社の社長にも電話して、真っ直ぐにこのことを伝えた。
社長には、以前からどうもこの仕事が合わないことを話していた上で「本当に無理だったらいいけど、せめて一年は続けてほしい」と言われていたのだった。
だからなんて言われるだろうとドキドキしたけれど、「プロデューサーと話をしてそういうことになったんなら大丈夫だ」と言われ、来週社長にもきちんと会って話すことになった。

一年という当初の契約期間は、私にとっては長過ぎた。永遠にも思われるような時間をここで毎日過ごしていかないければならないのだろうかと、今年の初めは途方に暮れていた。
そしてこれだけ毎日のように悩み苦しみ続けていた事が意外にも早く終息を迎えそうなことに驚き、むしろ若干の戸惑いすら感じていた。

本当にこれでいいのだろうか。
これでいいはずなのに、なぜか手放しで喜べない自分がいた。

この8ヶ月間、毎日やめたいと思っていた。初めてのオンエアが終わった時から、ここは自分のいる場所ではないと気付いていた。
毎日のように悩んで、ディレクターになるために今を耐え凌ぐべきなのか、そしてこのテレビ業界でディレクターになった先になにができるのか、考え続けた。自分は何から逃げているのか、一番重要なことは何か、いつも頭がすり切れるくらいに悩んで過ごした。 

そして、今のテレビ業界でディレクターになってもおそらく自分のやりたいことはできないだろうという結論に達した時、私がここに居続けるメリットは、ほとんどないといってよかった。

それでも、合わないと分かっていながら半年以上この仕事を続けたのは、テレビ業界への未練と、他の選択肢への迷いがあったからだ。
ここでないとしたら、どこだったら自分のやりたいことができるのか、見当がつかなかったのだ。
そんな中で、テレビ局所属の名刺すらも失うとしたら、私にはアイデンティティとして何が残るというのだろう。 

報道の世界で働くことを夢見ていた。そして、映像制作の仕事をしたいとずっと思っていた。
今までそんな自分の思いを直視することすら怖かった私が、ようやくそのスタートラインに立てていることが嬉しかった。
自分の仕事について話すとき、キー局や番組名を出すだけで「すごいね」なんて言われるのも、正直満更ではなかった。
今のテレビ業界で自分の夢が叶うのなら、どんなに良かっただろうか。
せっかく夢に近いところで働くことができているのに、自分が求めているものと何もかもが違うということを、どう受け止めたらいいかわからなかった。
 
こうして結論が出たあとで自分の決断を客観的にみてみると、あらゆる雑音が聞こえてくる。

せっかくテレビ局に入れたのに。
もうちょっとくらい我慢できなかったの?
なにがそんなに辛いの?
いつも仕事をやめるのが早すぎるんじゃない?そんなことでは何も身につかないよ...

だけど、毎日この職場に通うために自分の心をすり減らしているということ、そのリアルな苦しみだけは、どうしても見過ごすことのできない事実だった。

本当は、こんなにせかせかとキャリアチェンジするよりも、同じ業界にいて定収入をもらいながらディレクターになる方が良い、ということは私だって思う。
こうして仕事をやめたり始めたりし続けるのは、正直かなりエネルギーの要ることだし、どんどん転職も不利になる。
テレビ業界でディレクターになり、それから今後も数十年キャリアを積んでいくことを考えれば、ADとしての数年の下積みなんて大したことはないのかもしれない。

そして私にとって、下積みのADとして過ごしたかった場所が、倒産した前の職場、番組制作会社”J”だった。
”J”では、みんなそれぞれのプロデューサー・ディレクターが好き勝手に動き、フリーランスが出入りし、それぞれの企画を進めていた。
辺境の地への旅番組も、硬派なドキュメンタリーも、今をときめく人に焦点を当てた人間ドキュメントも、とにかくそれらがバラバラのように見えて、でもどこか”J”っぽく尖っているのが私は好きだった。

”J”のような小さい会社に所属して、いろんな局のいろんな番組の仕事をするのが私の理想だった。企画を出して、「この番組の企画としてダメだけどあの番組なら通るかもしれない」という選択肢があれば、自由度も大きい。
局で働くと、数年で異動があり別の番組に行くことができるけど、それでも夕方ニュースや情報番組といった枠の中で企画して制作することになることには窮屈さを感じてしまう。 
今やテレビドキュメンタリーの枠は激減し、報道系の制作会社はどこも厳しい。”J”が得意とするような番組がそもそも少なくなったことが、倒産の大きな要因になったと考えられる。
そして、私が惚れ込んで入社した”J”が居場所をなくした現在のテレビ業界で、自分がやりたいことができるとは、やっぱり思えなかったのだ。

プロデューサーとの話を終えたあと、番組キャスターK氏から内線電話で呼び出された。
以前、番組制作会社”J”の企画で、キャスターKを伴ってイラクに取材した番組があった。キー局のキャスターでありながら自ら危険な現場に飛び込んで取材しているK氏を、私は陰ながら尊敬していた。

K氏は、頼みたいことがあると切り出した。
「私、1977年に入社したんですよ。年齢的にいつまでやるか分からない。そろそろ今までの仕事を整理したいと思って。だから1977年から2020年までの私の仕事を整理するのを手伝ってほしい」

や、やめるんですか?と驚きつつ、先ほどやめることが決まった自分のことと重なり、余計に戸惑いを隠せない。
キャスターK氏は1977年に局員として入社した後、社会部記者や海外支局長を歴任し、数年前に局を定年退職している。その後は番組キャスターとしてフリーで契約していた。もう70歳近い年齢を考えると、確かにそういう時期なのかもしれない。

私自身もやめることが決まった今、尊敬するキャスターK氏の仕事をまとめる仕事を最後に任せられたことが嬉しかった。

「まぁ、急ぐ話じゃないので、年内くらいにやってもらえたらいいですよ。」

年内か...。
退職を急いでしまった手前ではあるが、ちょっと早まったかなぁ、なんて思ってしまった。
もっと早く頼んでくれたら良かったのに、なんて思いながら、K氏が今まで取材した作品のリストを出力する作業にとりかかる。

最後にこの仕事だけはきちんと終えてからやめたい。そうしたら、最後にK氏にサインをもらおう。最後にひとつ楽しみができたような気がして、少し嬉しい気持ちになりながら番組スタッフルームに戻って行った。

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