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【短編小説】碧い海の向こう


波の音、それは遠い海の声。

あの頃、きみが僕に出会ってくれた頃のこと。

味気ない日々の営みも
さびしく静けさを纏った見慣れた街並みも
テーブルの上の冷めきったコーヒーも
何もかもが彩りを取り戻し煌めきを持ち始めていた。

まるではじめから淋しさなんて知らないみたいに
それらすべてがどうしようもなく温かった。

棚に並べられただけの食器も
古びた扉の鳴き声でさえも僕には愛おしく感じた。

僕は窓の外の少し遠い海を見つめるきみが好きだった。

ある日春でも夏でもない季節に僕たちは海をおとずれた
時々風がはこぶ潮の香りが喉の奥で
懐かしさを呼んでいる。

きみの眼差しが溢れた陽射しに反射して
それは僕が知っているどんなものよりも美しかった。

僕は鞄の中からそっとフィルムをとりだした。
海のようなきみを忘れないように。
きみがいつまでもこんなふうに遠く
眺めていられるように。


波の音が遠くなったり近くなったりしている。
振り返ると僕たちの足跡がずっと先まで続いている。

水の中で揺れる砂をそっと拾い上げて
なんとなく切なくなった。
僕には海がどこまでも深く碧く冷たくみえた。

そしてそれがきみを見た最後の日になった。

きみがいなくなってはじめて僕の世界に冬がくる。

暖炉に伸ばした手が赤みを帯びる
こんなにも寒かっただろうかと思う。

きみがいた頃の僕も、きみも、あの海も
もういない。

ただきみのくれた日々を思い出し
失いかけた声を拾いあげる。  

そうすると僕はまた温かくなれる。

こんな風にきみを想っていることを
きみに知らせる術もないけれど
記憶の中できみがいつまでも
燦然と笑っているといい。

きみだけがいない世界で僕は
空と海の境目もわからないほど
何もかもが碧く澄んでいたあの頃を
きみがいた世界を
今もたまらなく愛おしく想う。

そしてコーヒーは僕の手元でちゃんと温かい。


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