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場面緘黙症だったことに大人になって気付いた話①

わたしは、幼稚園入園から小学2年のおよそ2年間、園内、校内では一言も喋らないとてもおとなしい子供だった。

極度な人見知りだと思っていた。


3年生になって、人見知りに変わりはないものの、クラス替えをきっかけに、少しずつ話せるようにはなった。ただの人見知りでないことを知ったのは、大人になって、たまたま手にした本だった。


1.場面緘黙を知ったきっかけ


20年以上前になるが、
『トリイヘイデン著 檻の中の子』
に、特殊学級をしていたトリイのクラスに入った、数年間しゃべらないと言う男の子が場面緘黙であることが書いてあり、この子の場合、児童虐待が原因だったと記憶するが、生い立ちこそ違うものの、自分と似た症状に、ただの人見知りではなかったのだと、衝撃を受けたのを覚えている。


随分と月日が経っているので、詳しい内容は忘れてしまったが、読み返すにはあまりにも内容が衝撃的だったので、本はすでに処分してしまったのだが、現在は日本でも場面緘黙の絵本や漫画が出版されたりと、認知が随分進んできているようなので、封印してきた過去に少しずつ向き合ってみようと思う。

自分は自分の力で、場面緘黙を克服したと思っていたのだが、今も生きづらさ、不安感を拭えないのは、もしかして場面緘黙の後遺症なのだろうかと思うのだ。

2.場面緘黙とは

簡単に緘黙と場面緘黙の違いを説明すると、緘黙は場所を限らず完全に喋れないのに対して、場面緘黙はある一定の場所(学校など)場面に対して1ヶ月以上喋れない状態が続くことをいう。きっかけは集団生活の始まりが多いという。
その場に固まって動けなくなる緘動という症状も併せ持つ子もいる。
不安障害の一種だと言われているようだ。


原因はまだはっきり解明されてはいないようだが、現在は親の育て方は関係がなく、生まれつき不安になりやすい資質と環境などの要因で200人に1人の割合で場面緘黙の子がいると言われている。

3.幼稚園時代のエピソード


家に帰れば普通にしゃべるのだが、幼稚園では、とてもおとなしい子供だった。

ただのおとなしい子ではない。園では、先生ともクラスメートとも、誰とも一言も喋らない。笑わない。怒らないという、筋金入りのおとなしさだ。

ただ無表情で机に座っているだけ。
ただ、唯一できていた事があった。
それは、泣くことだった。

あとで母に聞いた話だが、入園式のとき、一人泣き声が響いていて、誰だろうと思ったらsayoだったらしい。 

女性で中年の怖い先生が一人いて、仮に大島先生としておこう。
担任ではなかったが、予防接種のたびに泣いて怯える園児に、うんざりした顔でこう言い放った。

「泣いたら注射二本打つよ!」
本当に二本打たれると思ったわたしは、泣くのを我慢した。そして無事注射を終えた。
周りの友達からは、

「sayoちゃんが泣いてない!」
と、驚かれた。


今考えると、泣くと言うことが、場面緘黙の症状を持つわたしにとって、唯一の感情表現だったのかもしれない。それを奪われてしまい、この日を境に園では泣くこともしなくなったと思う。

強くなったのとは、また別の問題だった。痛みさえも、痛いと言えなくなったのだ。(小学生編で書こうと思う)

大島先生は、入園と同時に始めたピアノの先生でもあり、ピアノの時もビシバシと容赦なく、赤いボールペンの先で楽譜をたたいていたので、楽譜にはペンの跡があちこちに付いていた。

「指をたてる!」
と何度も注意されるので、ピアノが終わった後の指は、赤ペンで刺された跡がいつも残っていたと記憶する。

当然ピアノ教室は楽しくなく、途中で近所の方のされているピアノ教室に移ったので、卒園後は再び会うことはなかった。

園では、毎朝出席をとる。『はい』という言葉さえ言わない。言わないというより、言えなかった。

声を出そうと思っても、喉が塞がった感じで、出なかったのだと思う。

ある日返事をしないことを、幼稚園の3者面談の時、担任が母に告げた。
家でなぜ返事をしないのかと聞かれたが、自分でもよく分からないので、返答のしようがない。明日はするのよ!と、そんなことを言われたと思う。

だって家では普通に話をするのだから。

翌日、幼稚園から帰って、母に確認された。

「今日は返事したの?」
もちろん、返事した、と嘘をつく。
「じゃあ、幼稚園に電話して聞くよ!」
と、母は最悪の返答をする。

本当に電話で確認されるのではないかと内心ビクビクしていたが、母が確認の電話をすることはなかった。

返事はできなかったが、頷いたり、首を振ったりすることで意思表示をしていたので、出席の返事は手を挙げるルールにしたらよかったのになと思う。

お遊戯会で、『不思議な国のアリス』の劇をした時は、喋らずに5〜6人で手を繋いで体を左右に揺らすだけの役だった。花の精の様な役だったのかなと思う。真ん中で左右手を繋がれていたので、自ら動くと言うより、動かされている感じだった。手を繋がれていなければ、ただその場に立ち尽くしていたと思う。


喋りはしないものの、工作は仕上げていた。好きな色の画用紙にクレヨンで絵を描いた時のことだ。


みんなは先生から、ピンクや水色、黄色や黄緑など、綺麗な色の画用紙をもらっている。
自分の欲しい色を伝えられないわたしは、一番最後に選ぶことになる。

結局余った色は、黒やグレーの子供には人気のない色のみ。どちらも嫌だなと思ったのだが、先生に、黒は出来上がった時、絵が映えると思うよ!と言われたので黒を受け取り、クレヨンで黒の画用紙に黙々と描き続けた。

あとは完成した絵の下に、長方形の紙にタイトルと名前を書いてもらって貼り付ければ完成だ。

できた人から、前に座っている先生に絵を持っていき、タイトルを伝えて先生が書き込んでいくというシステムだ。

呼ばれて持って行ったのか、自分の意思で持って行ったのかは覚えていないのだが、
これは何かな、と尋ねられたのは、はっきりと覚えている。

 『はなび』
と、心の中で思いながら、言おうかどうしようかと葛藤していた。

10秒も待てなかった先生は、

「模様かな」
と、勝手にタイトルを付けてくれたので、あとは、コクンと頷くだけだった。

翌日《もよう》と書かれた花火の絵が、寂しそうに教室の後ろに飾られていた。


※場面緘黙の診断を受けたことはありませんが、幼少期を思い返しての自身の判断です。症状は様々で、個人差がありますことをご了承下さい。

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