チョピンの岩さん(下)

ラストです。
かつて『週刊小説』に連作で書いた【相撲おもしろ物語】からの一編「チョピンの岩さん」。三つに分けた上・中・下の下です。

「チョピンの岩さん」(下)【週刊小説 1996年9月13日号】

 
  5

もう名古屋場所が迫っていたからね。ここで本当の事を告げりゃ、あのムラっ気のある赤間岩のことだ。ひどい土俵になるに違いない。おれは梅ケ戸親方と相談した。
「ちょうどまた、コンサートがあるんです。そいつを聞きにいかせたらどうでしょう」
「岩のことだ。行けば、今度は楽屋に押しかけようとするぞ」
「芸術家はデリケートだから、それは失礼にあたると言いましょう。あるいは向こうに話をして、自分のステージが終わるとすぐに帰ってくれと頼んでおいてもいい」

親方は腕組みをしてしばらくの間考えた。
梅ケ戸部屋の、親方の個室だ。ちょうど相撲取り連中は昼寝をしてる時なんだけどね。その静かなはずの時間に、けっこう大音量でピアノの調べが流れてくる。赤間岩が、自分の部屋のコンポで「チョピン」を聞いてるんだ。相撲部屋に流れるピアノ曲。なんとも似合わない光景だよ。

今回のことでおれも少し勉強したから知ってるんだけどね、あれはたしか「練習曲第3番ホ長調」というやつだよ。別名が「別れの曲」。
皮肉なもんさ、赤間岩はもうすぐ自分の運命がその曲名みたいになるとも知らずに聞いてるんだ。もっとも、横文字ばかり並んだジャケットを嫌がってろくすっぽ見もしない岩さんは、その曲名も知らないんだろうが。

「しょうがない。そうするか」
と親方は決断した。
「とりあえず今場所を乗り切ってから、本当の事を話そう」
そんなわけで、おれはチョピンの岩さんと付け人と一緒にピアノコンサートに行ったんだよ。
場所は赤坂にある、小ぢんまりしてるが立派なホールでね。こう言っちゃなんだが、たかがセミプロ連中の集まりなのによくこんな場所を借りる金があるなと感心するよ。たぶんみんな、あの時見た田園調布の家みたいなのに住んでる連中だろうから、まぁ、おれが心配してやることはないんだけどね。

赤間岩はおれの忠告にうなづいて、
「たしかに、芸術家ってのはデリケートだろうからな。楽屋に行くのはやめとくよ」
と言ってくれたんで、相手には告げずに行った。それが失敗だったのかもしれない。いや、なに、彼女は悪くないんだ。

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