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[雑記]山登りと人生について


ここで、勢いのままに山記録。
壮大なタイトルをつけてしまった。

バカンス紀行を綴るために始めたnote、まだ3日目までしか書いてないや。

でも良い。
書きたいときに書くのが note なんだから。

と 自分を甘やかしながら、どうしても今フレッシュな気持ちのうちに書いておきたいのが、先日の山登り談である。

(とはいえこの書き出しを下書きに納めてからもう十日経っているのでもはやフレッシュではないことはさておき____)


村とAnbotoと私

なんだか耳馴染みが良いリズムだなと思っただけで偶然です。他意はないです。決して。

スペインへ来た初日に車窓から撮影したAxpe村

私が毎日仕事に通うこのAxpeという村は、Anbotoと呼ばれる大きな山の麓にある。

石灰岩で出来た山。
天気によって、また季節によっても異なる顔をもっていて、一年間この景色を見続けている今も尚、飽きることはないし、今後もないだろうと思う。

それほどに美しく荘厳な風景と共に、私の日常は、在る。

それが故に「この村を知るには、この地域を知るには、まず山を登ることだろう」と思い、初めて登ったのが1年前の2022年11月6日。この地に辿り着いて1週間での出来事だった。

その日から、気づけば季節ごとにAnbotoに登っていた。定期的に登ろうと決めていたわけではないけれど、不意に季節の変化を感じれば「山に登りたいな」と思うようになっていた。

冬は空気がキリッとしているなとか、夏は虫が多いなとか、こんな道があったんだとか、こんな景色も観れるんだとか、毎度この山から貰える色んな気付きが嬉しくて、季節の移りを待ち遠しく思うまでになった。

そんな中、秋の気候を感じ始めた先月頃からは、季節も一巡したということで「バスク入り1年記念登山」を画策していた。

そして、天気や風の条件がピタッとハマった日が、奇しくも2023年11月6日だったのである。


そんな長い前置きをもってして、タイトルの通り私が記録しておきたいことというのは、

山登りと人生は似ている

これ。これなんですねえ。

書き出しから熱苦しいな....いやでも、これは私が計5回この山に登った中で見出した、非常に大きな気付きなわけでして。

山登りと人生との共通点、あげ出したらキリがないけれど、一部抜粋してみます。

①足元ばかり見ていると道を見失う

まずはこれ。

日本では、山登りなんてほとんどしたことがなかったから他の山の常識は分からないけれど、Anboto を登るときはいつも先人が踏んだであろう道を辿って歩く。

山のぼり初期段階の道


初めの方はこんな感じで草が踏み分けられて土が見えている部分が道になっているので、とてもわかりやすい。

それが次第に岩斜面に突入してくると、次に進む道が分かりにくくなっていく。足元や近くばかり見ていると、自分がいま一体どこにいるのか分からなくなったり、挙句どんどん道を逸れて、迷子になったりする。


②ふと目線をあげて世界を広く見ると、進むべき道が見えてくる。戻るも勇気

道を見失ってしまった時は、一度冷静になって目線を上げる。深呼吸して見渡すと、はっきりと道が見える。「ああ、進むべきはそっちだったのか」と。

でも、迷ったことに気がつかないまま突き進んでしまったこともある。気づいたときには、大きく大きく道を逸れてしまっている なんてことになってしまう。

迷った時に頼りになるのは草の方向


そんな時もやはり、周りを見渡してみる。小さくてもヒントを探す。
はっきりとした道はなくとも、草が踏み分けられた方向を辿ると、かつて人が歩いたであろう道に戻ることができる。

大きく道を戻らないといけないこともあるけど、そのまま意地になって突き進むのは失敗のもと。潔く諦めて、来た道を戻るのも勇気だと思う。

③先人が示すことは、大抵正しい

だれしも、自分が唯一無二だと信じたい時がある。自分で道を切り拓くのだと決意して、誰の意見も耳に入れないような時期もあるかもしれない。人と違うことをしたいと思って、みんなとは異なる道をあえて選ぼうとする人もいるだろう。

でも、先人が示すことは、大抵正しい。
自分がオリジナルだと思っても、世界は広いし人類の歴史は長い。大抵すでに同じことをこの世界の誰かがやっていたりする。

過去に学ぶ。歴史から学ぶ。
どの世界にも"先生"が居る。
先に生きたから、"先生"なのである。

ただ、道から外れて痛い目をみるのも、人生においては必要な経験だと個人的には思う。

なんの話かって?
ええ、慣れない山登りで調子に乗るなという話ですよ。

④必ずしも最短ルートが良いとは限らない 遠回りすることでしか見えない景色もある

先人が正しいとは言ったものの、その道から逸れたことでしか見えない景色もあったりする。

迷子中にみた景色 Axpeの村

ただ先人の道をなぞるだけの山登りは、正確だけど、どことなくつまらない気もしてしまう。

迷ったり迂回したり立ち止まったりして、そんな時にふと綺麗な花をみつけたり、変なキノコと目があったり、素晴らしい景色に出会えたりする。

ゴールに向かって最短距離で突っ走るも人生。寄り道しながら脇道にそれながら、それでもゴールに向かって少しずつ近づいていく、これもまた人生。

ただ、後者の進み方こそがのちのち "オリジナル" と呼ばれるのかもしれないですね。

⑤油断と慢心は失敗を呼ぶ

油断大敵。
サクサク進んでると思ったときにほど、足を滑らせるもの。足元だけをみていたら迷う。でも前だけ見てても必ずつまづく。

ゴールを見る。自分の立ち位置を見る。
現状の差分をきちんと認識しつつ、その繰り返しで進んでいく。

間違っていたことに気付いたら、潔く戻る。
意地を張ってそのまま突っ走ってしまうことは、なにかしら大きな失敗を呼びかねない。体を壊す可能性もある。最悪、死に至る。

「なんだ、楽勝じゃん」
なんて思った時に、足元からすくわれる。

それも、山登り。それも、人生。

⑥頂上を目指している人としか頂上にはいけない


当たり前だけど、大事なこと。

8合目を目指している人とは、頂上にはいけない。5合目くらいまではみんなで楽しく歩けるかもしれないけど、その先は過酷な道になっていく。きっと、それまでのようにみんなと足並み揃えてはいられない。

行きたい人だけが、頂上に行けば良い。
目指した人だけが、頂上に辿り着ける。

それだけ。
でも、大事なこと。

ちなみに、頂上にいる人はみんな良い顔をしている。これだけは、もれなく全員に共通して言える。

⑦困難を乗り越えた先に素晴らしい景色がある 止まない雨はない

マラソンもそう、ダイエットもそう、大学受験なんかもきっとそう。

山登りも、もちろんそう。
ゴールの直前が、1番キツいもの。

頂上の手前が、1番急な崖になっていたりする。ロッククライミング的な身体の使い方でないと、辿り着けない場所もあったりする。

でも、その分厚い壁を乗り越えたからこそ、みえる世界がある。

例えばこの日は、頂上まであと30分という頃、あたり一面に急に雲が発生してきた。しだいにそれは山の周りを取り囲んで、なにやら霧のようなモヤが下へ向かって降りている。

暗雲立ち込めるとは、このこと

間違いない、雨雲だ。

今更、下山することもできない絶妙な地点に私は居た。どうせ間に合わないのだから、ここは登ってしまおうと頂上まで急ぐ。

風もどんどん強くなっていく。不気味なほどに辺りも暗くなってきた。

更に、これは5回目にして初めてのことだけど、頂上に着いてもひとっこひとり居なかった。今更ながらに、とても危険な香りがする。

ほどなくして、雨粒が頬に当たった。

いやちがう、雪粒だ

いまだかつて、こんなにも悲壮感に溢れた「わ....!雪だ....!」を私は知らなかった。初雪はもっとほら、こう、ロマンティックなものでしょう?

そこからはもう、地獄の到来と言わんばかりの悲劇っぷりだった。

風はごうごう音を立てて強まってくるし、痛いくらいの雪が身体にぶち当たってくるし、頂上だから丁度良い洞穴なんかも勿論なくて、かろうじて飛び出た岩陰に沿わせるように半身だけ身を隠して、とにかく縮こまっていた。もちろん厚着なんてしてないから、時間が経つごとに寒さで手足の感覚がなくなっていく。

やっべ、死ぬかも
と 本気で考えた。

こういうときの脳内ってすごくて、死なないためのいろんな情報が絶え間なく流れてくる。(火事に見舞われた時もそうだった)
山羊が寒さに耐えるために全身を縮こまらせていた光景や、遭難した時は下手に身動きを取らない方が良いこと、とにかく体温を下げないことなどなど、色んなことを考えながら、ただ時間が過ぎるのを待った。

体感は20分くらいあったけど、実質どれくらいだったんだろう。

しだいに雪が雨に変わって、雲の間からはついに太陽が顔を出した。

風が少しずつおさまって、雨は光に照らされてキラキラと輝きながら、そのうち霧になって消えた。

辺りが急に静かになって、岩陰から立ち上がったと同時に見えた景色がこちら。



泣いた。

号泣。

こんなんもう、泣かせにきてますやんか。

光、降り注いでる〜!
山脈、光り輝いてる〜!

もう、スピリチュアルだと言われてもかまわない。こんなの、神様からの贈り物でしょうよ!!!と。

普段はキラキラ言葉に苦手意識を示すひねくれた心の持ち主こと私だけど、さすがに雪に当てられてる最中は必死で「止まない雨はない」を唱えていた。

そうしたら、止んだ。
やはり、止まない雨はなかった。

あげく、虹まで見させてもらえた。
突然の雪も含めて、1年記念の贈り物だとでも思っておくことにした。

ありがとう Anboto
ありがとう 山の神様
ありがとう 我が素晴らしき人生!


というのが、山登りと人生の話です。

人生に悩む人にもそうでない人にも、山登りは良いものだよ と伝えたい。山は観るものではなく登るものだよ と言ってしまいたい。

こんなふうに書いたけど、私はこの山以外には登ったこともない超・山登り初心者です。

だけど、よりたくさんの山を登る人、より高い山を登る人の気持ちが、この一年でほんの少し分かった気がするのです。

これからも、Anboto にはお世話になるだろうな。次は、どんな景色が見れるかな。

山から学ぶことは本当に多い。
また、次の出会いが楽しみです。

おしまい



[番外編①]ひとつ登れるとより高い山に登りたくなる

実はまだまだある、人生と山の共通点。

たとえばそう、ひとつクリアするともうひとつ 、という欲が出てくることも。

ひとつめの成功体験があるから次もその経験を応用していけるような気がするんだけど、そこではそこの壁にぶつかったりして。

自分なんてまだまだだなあ、と思いながらまた、より高い山にチャレンジする。

という道もあれば、反して、同じ山に何回も挑戦するのも面白いなと思ったりする。私が実際にAnbotoに何回も登っているけれど、同じことを繰り返すようにみえて、実は毎度全く異なる発見や学びがある。

それがつまり、"深める"ということなのかもしれない。

[番外編②]山を登らずに眺めている人の方が実は多い 頂上から見る山と下から見る山はまるで別物

少し辛辣な物言いになるので番外編にしてみた。

山を"下から眺めている人"の、多いこと多いこと。

道に迷った人や道中で怪我した人、挑戦したけど諦めて下山した人を馬鹿にするのは、いつだって"自分は何もせずに下から眺めている人"だ。

下から毎日見ているからって、その山のことを知った気になっている。

「ほら、だから言ったでしょう」
「どうせ無理だって思ってたんだよ」
「やめとけって、危ないよ」
「わたしにはそんな時間ないから」

だけど、その人たちは、知らない。
道中で見つける美しい花や木の実も、頂上で深呼吸したときの晴れやかな空気も、雨雲に囲まれた後の素晴らしい虹の景色も。

言うのは簡単。
でも"言うこと"と"やること"と"やりきること"はそれぞれ全くの別物。

どれだけ小さい山でも、まずは挑戦して、上に辿り着ける側の人でありたいですね

という話です。

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