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教員には成長が義務なのか。強制される「成長」に対するアレルギー

専門科(音楽)高校で英語科教諭をしているSakuraです。現在鬱病闘病中ですが、勤務はなんとかできています。

今週1週間休みがあったのですが、普段からよく見聞きすることをテーマに、どうしても書きたくなりました。

テーマにも書きましたが、教員こそ日々の努力により成長・自己研鑽が求められる職業だとは理解しています(これは一般の職業においても同様だとは思いますが)。幼・小・中・高と、校種が違っていても、本質は同じである教員という仕事。個人としては、研鑽が必要という部分は理解しますし実践しています。

ただ、それは他から強制される類のものではない、ということは個人的には思っています。

よく自己啓発本などが挙げられることが多いのですが、私は苦手で、そういう類の本は受け入れられません。人として心が狭いか、頑固なのだと思います。

その代わり、私は自分で興味を持つことをどんどん突き進めて行くタイプです。

今は修論のテーマだったこと(初期近代英語におけるDo挿入の統語的作用)から幅を広げ、「英語史」「英米語の差・類似点」「極小理論以前の生成文法理論(GB理論など)」の勉強を少しずつしています。楽しいですね、専門分野でしたし。

あとは入試問題(共通テスト)の研究(出題傾向を読み込んだり探ったり、問題を解いて、解説をしたあと、私なりの解き方・答えへのたどり着き方を探ること)も、私の業務でもあり、趣味でもある気がしています。単純に問題を解いて出題傾向を探ったりするのが楽しい。

鬱病でもあるので、限界値が健常者の同僚と比較すると低く、体力も気力も一定期間で上下するのですが、罹患し、自傷行為が止められず、入院を経て復職し、今では上述のように感じています。

「読書をしない教員は教員ではない」これは前任校の校長が言っていた言葉ですが、私は違和感を感じます。読書は、トップダウンでするものでもないし、研修会で課題に出ていたからするものでもなんでもないはずです。「自分で、読みたいと思うから読む」それが読書のはずです。そうではない、強制された読書というのは、読書ではなく「業務」の一つだと私は考えます。たとえば新学習指導要領に関する書籍だったり、観点別評価に関する書籍だったり、カリキュラムマネジメントに関する書籍であったり。

んーー、たしかにさ、大事だよ?でもさ、私は仕事として、その担当ではない限り、すすんで読みたいとは思わんのだよ。読むかもしれないけどさ。それってやっぱり校務分掌としての「業務」じゃん。

読書って、そうじゃないだよ、きっと。大学院時代の英文学の教授に言われた言葉だけど、「みなさん、読書はしていますか?自己研鑽に関するものだったり業務に関するものは、本来の読書とは異なりますよ」という趣旨でした。

その言葉は、たしかにその通りなんじゃないかな、って今は思います。

もう中堅教諭になって数年が経ちますが、鬱病のせいで、「活字を楽しむ」ということがなかなかできません。大好きだった恋愛小説も、読む気力が起きないです。代わりに趣味で小説を執筆しているのですが、それも鬱になってからは、なかなか執筆ができません。

それでも、今の私にも、これ勉強したいな、もっと知りたいな、と思える分野・事があるのは、幸せなことかもしれないな、と思っています。

まぁもちろん毎日しているわけではないですし、ゲームしている時間のほうが多かったりしますが…。

人によって意見が異なるだろうなー、と思っています。私は、強制されることにはものすごく反発していまいます。よほど合理的な理由があり、私の方にも利することがあったりなど、そういうことがあれば従いますが…。でもそれってやっぱり仕事、ですよね。読書じゃなくて。

ってことで、悶々としていたことを吐き出した次第です。


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