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負の感情

 今日は「思い出し笑い」ならぬ「思い出し怒り」をすることばかりだった。ずかずかとこちらの心に土足で侵入してくる人であったり、いつも持ってきているものをこの日に限って持って来ていないという自分のタイミングの悪さだったり、誘惑に負けてケーキを食べてしまった自分の意志の弱さだったり、ライブを観ている最中に後ろにいた関係者がぺちゃくちゃおしゃべりをしてたり、などなど。敢えて挙げてみると、神経質な性格が露呈している。AB型なんだけどな。

 怒りや悲しみなど、「負の感情」と呼ばれるものは、あまり良しとされない風潮にあると思う。だが、果たしてそうだろうか。どんな感情も心や身体が伝えていることであり、等しく大事なものだ。そこに優劣はない。

 『HUNTER×HUNTER』に「その人のことを知りたければ、その人がどんなことに怒るのかを知れ(大意)」という台詞が出てくる。連載リアルタイムで読んでいたローティーンのわたしは「なにに怒るかより、なにが好きかのほうが、その人のことを知れるんじゃないかなあ?」なんて思ったものだが、大人になってからこの台詞に納得することは多い。

 負の感情には人間の本質が出る。たとえば、喜びや楽しいという感情は共有しやすい。たとえば宝くじが当たったとか、いい買い物ができたとか、それらを悲しいと思う人は少ないと思う。だが怒りや悲しみというものは細分化される。わたしにとってブチギレ案件が、誰かにとってはそよ風のようなものだなんて、よくある話だ。

 負の感情に振り回されると体力を消耗する。だからその感情の波風を立てないように過ごすのは、ある種のシェルターだ。だがそのシェルターが無敵かというとそうではなくて、自分の「いやだ」という感情に気付かないふりをして許容しているだけ、とも言い換えられる気がする。気付いた時には時すでに遅し、なんてことも少なくない。

 だが負の感情はそのまま放出するにはパワーが強すぎる。相手に多大なるダメージをくらわせることになってしまうのは、怒りっぽいわりに平和主義者なわたしの望むところではない。「自分がすっきりすればそれでいい」と割りきれるほど悪人でもなければ、自分を犠牲にして相手を守るほどの強さもない。そんなフツーの人間のわたしはどう生きていったらいいんだろう? と悩んだ結果「怒りを怒りとして表現するのではなく、面白おかしくすればいいのではないだろうか?」という結論に落ち着いた。28歳の頃の話だ。

 そもそも自分が魅せられたロックという音楽が社会への反抗心や自分の心情吐露を、音楽に昇華した音楽だ。へんな話、不平不満なんて拡声器を持ってぶちまけたり、金属バットを持って暴れれば発信できる。なのにそれを音に乗せて曲という空気の振動にするのだから、その行いはとてもユーモアに溢れているし、人間的だとも思うし、優しいとも思う。

 自分がなぜこういうことに怒るのか、悲しいと思うのか、ということを把握しておくことは生きていくうえでとても大事なことだと思う。それがわかっていれば少し生きるのがラクになるし、自分の進みたい道も見えてくる。自分の心の声に耳を傾けることは、人生を豊かにする第一歩だと思う。

 まあでも、この前弟から「そうやって怒ってばっかりだと〝おこごとおばさん〟になっちゃうぞ!」と言われたので、28歳で発掘した理屈にもそろそろ限界がきたようで……。というわけで、負の感情の発信にはもうひねり加えていきたい所存であります。

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