「書くことが好き」の果ての選択肢がライターだったのはなぜなのか

 「さやこは小さい頃、出掛けるといつも、看板を指差しては〝あれなんて読むの?〟とうるさかったわー。で、読める文字を見かけたら何度も連呼するの。2歳の子ががんがん漢字を読み上げるから、周りの人たちが驚いてたわ」

 母がわたしの幼少期のエピソードを話すときに、必ず出てくる話題である。記憶を掘り返しながら優しい笑顔で語る母を眺めて、「そんな娘を目の前にして、当時の母は得意げだっただろうか、それとも黙ってくれと思っていただろうか」なんて思いながら、「へえ、そうなんだねえ」と答えるのが定番になっている。

 わたしは文字に興味を持ちだしてからほどなくして、漫画を読むようになった。父と母のどちらが用意したのかは定かではないが、絵と文字でストーリーが展開する漫画は、絵本より刺激的で興味深かった。

 ドラえもん、ドラゴンボール、じゃりン子チエ、なぜか1冊だけあったサザエさん。当時は難読漢字にだけしかルビが振っていなかったので、読めない字があるたびに母のもとまで「なんて読むの?」と問うた。すなわちこの時点で数字とひらがなとカタカナはマスターしているということだ。え、こわいんですけど。

 それから母はすべての漫画の漢字とアルファベットにルビを振った。わたしは自分ひとりで読めることがうれしかったが、相当な労力だったと思う。本屋さんで漫画を買って、家に帰ってからうきうきしながら「ルビ振って」と頼み、それを待つときのドキドキはいまも忘れられない。余談になるが、その漫画は今も家にあって、ページを開くと当時の母の文字がぎっしり詰まっている。

 「死」というものを把握するタイミングも早かったと思う。ドラゴンボールはまず、悟空を育ててくれたじっちゃんがすでに死んでいるところからスタートするので、そこを把握しないと物語を追えない。じゃりン子チエもお好み焼き屋のおっちゃんが飼っていたアントニオが物語の序盤で死んでしまう。

 漫画の世界は、文字だけでなくいろんなことを教えてくれた。じゃりン子チエはテーマこそ大人だが主人公は小学生だし、コマや表情を効果的に使ったはるき悦巳先生の卓越した心情描写は、子どもの感性に訴えかけるには充分だった。ただ父も母も、2~3歳の娘にドラゴンボールの「ぱんぱん」のニュアンスを伝えるのは難しそうだったけれど。キンタマクラせがんでまじでごめんおとん。

 その原体験は自分の礎になっているのだろうな、と思うことが多い。焼き鳥と猫が好きなのは絶対にじゃりン子チエの影響だし、少年漫画を読むと少年マインドになってしまうし、未来や過去というものに思いを馳せたりタイムスリップものが好きなのは間違いなくドラえもんの世界に憧れたからである。

 目にとまった看板のキャッチフレーズを読み上げるクセが抜けないまま成長期、思春期を経て大人になった。30を過ぎたくらいの頃、誕生日にTwitterを開いたら「今日は何の日?」というアカウントによる「5月18日はことばの日。5(こ)1(と)8(ば)の語呂合わせ」というツイートが流れてきた。厚かましいかもしれないが、ちょっと運命めいたものを感じてしまった。

 文字に惹かれ続けた人生だった。賞状は作文しかもらったことがないし、小学生の頃は狂ったように辞書に読みふけって、中学時代は音楽雑誌の真似事で音楽の感想を書いた新聞を作ったりしていた。家にパソコンが届くとWordで毎日日記を書くようになった。自分の気持ちを整理する方法が、混じり気なく伝えられる方法が、文章を書くということだった。

 なぜこんなエピソードを急に書いたかというと、今日とある人から「沖さんはなんでライターになったんですか?」と訊かれて、理由はあるのにうまく答えられなかったからだ。

 お相手は悪い意味で言っているのではなく、「在りものに言葉を投げるライターではなく、もっと自分から湧き上がるものを言葉にするほうが向いていると思う」という、凡人のわたしには恐れ多い賛辞として言ってくれていた。だからこそ動揺も大きかった。

 ライターを始めて10年になる。10年経てば人も変わるし、10年前のわたしがライターをやっている理由と今のわたしがライターをやっている理由は、きっと違うのだろう。ただただその時その時の自分がいいと思う原稿を書くことだけに注力して、なあなあにしてきた部分を、あらためて突き付けられたような気がした。

 でも表現者を目指さなかった理由はある。(つづく)(誰が待ってるんだ、というツッコミはなしで)

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