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批評

 三島由紀夫と太宰 治、どちらを評価したいかというとわたしは断然太宰 治である。三島由紀夫に魅力をおぼえない自分でも、三島由紀夫の凄さや評価される理由は頭では理解できるし、三島由紀夫が好きな人を下に見るなどは一切ない。

 音楽評論においても「音楽的」の概念は批評家/ライターによってまったく異なると思う。過去の音楽の様々な要素をクリアに緻密に組み上げ新しい音楽を作ることが音楽的だと言う人もいるだろうし、音楽理論がしっかりした音楽であったり、目新しさのあるものであったり、アーティスト本人の心情をクリアに音に落とし込んだ音楽であったり、感情で突っ走るものであったり、それぞれの「音楽的」が存在する。

 それは三島由紀夫と太宰 治のどちらが優れているか、という話と似てくる。俗っぽい言い方をすれば「○○派」というあれである。そして太宰 治を好きな人のなかでも、太宰を評価する箇所はまったくもって変わってくる。自分が心を惹かれる場所を、まったく気にも留めない人はいるだろう。様々な解釈があるからこそ、芸術はその先まで面白いのだ。

 いろんな評論家/ライターがいるのだから、いろんな評論があるべきだと思う。だがどうしても、「アーティストサイドが求めているものと一致するものが優れた批評」であったり「辛辣な意見を書くことはアウト」などの風潮がある。後者に関しては、清 竜人氏がしばしば踏み込んでいる。

 批判と悪口はまったく異なるもので、批判は重要だと思う。その逆である称賛の観点でも、様々な批評家/ライターを招くのは重要だ。それこそ、先述の太宰 治の評価ポイントが人それぞれまったく違うというそれである。だからこそ、クロスレビューという手法こそ健全だ。それは世間の縮図だとも思う。

 様々なタイプの批評家が論じることで表現というものが磨かれていくのは必然だ。特に普段交わらないような人からの意見は非常に貴重だと思う。青春パンクが好きな人が、非常に理知的な方法で作られた音楽のレビューを正直な気持ちで書いたらどんなテキストになるのだろうか。高校生のごりごりのギャルから見て自分はどんな30代女なのだろうか。とても気になる。そこから新しい発見がありそうだ。

 アーティストサイドが、自分たちが希望する評価を下す批評家/ライターを求めているとしたら、それはほぼ批評ではなく宣伝文句としての存在価値だろう。現代の音楽評論は広告や宣伝の意味合いが強くなっているが、批評は本来批評であって、それ以外の何物でもない。わたし自身は「これが欲しかったんだよ」よりも「そんなふうに思う人がいるのか」と感心する批評に、批評としての面白味を感じる。

 音楽批評には、音楽的知識や経験、鋭い感性、語彙力や表現力が必要で、なにより自分の意志というものが重要になってくる。ちゃんと自分なりの批評ができる人間でありたいと思う。でもまだまだ足りないことばかりだから鍛えていかないと。これからも目指せ幽遊白書精神で、大人も子どもも興奮できる文章を書けるよう努めていきたい。

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