(短編)ここにあるもの
ここは何も、変わっていない。
飛行機から降りた時の、暖かい空気。夏の終わりの空気を、柔らかくかき回す風。ゆるやかな風にふわりと動く緑の木々。揺れる木々の頭上に広がる空は青く澄み渡っていて。ため息が出たのは、ほっとしたからだろうか。3時間程度のフライトでも疲れてしまう体に、僕はなってしまっている。
到着口を出ると、すぐに両親の顔が見えた。駆け寄ってくる母さん。その後を歩いてくる父さん。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「おかえり」
短く挨拶を交わす。
「なんだか顔色が悪いね」
僕の疲れを見て取った母さんが、心配そうに言う。早く家に帰りましょうと、父さんを促す。父さんは僕の荷物を持とうとしてくれた。「いいよ」と断ったが、再び手を出してきたので、素直に渡した。
父さんが運転する車窓から見える町の姿も、基本的には変わっていないように思えた。店が増えてはいるが。のどかでゆとりのある町並みが続いていく。車の中には、付けているラジオの音だけが響いていた。父さんはもともと寡黙だし、母さんは疲れている僕を気遣っているのだろう。
「しばらくは、のんびりすればいい」
ふいに父さんが言った。助手席の母さんが頷くのが見えた。
「ごめんなさい」
僕の口から出た言葉に、僕が驚いた。
「なんで謝るの、謝ることなんか何もないよ」
こちらに顔を向けて母が言う。
「ごめんなさい」
洒落たカフェが、実家の近所にできていた。メニューが書かれた黒板が店先に出されている。Blue Starという店名らしい。ランチの時間は済んで、おやつの時間か。手作りマフィン。入ってみることにした。
「いらっしゃいませ」
僕より少し歳上くらいだろうか、男性の落ち着いた声がした。
「いらっしゃいませ! お好きなお席へどうぞー」
続いて元気な、若い女性の声がした。僕は隅の方の、二人用の席の一つに腰掛ける。木目を活かした店内に、木製のテーブルや椅子。メニューなどの小物に使われている青色が爽やかだ。
水色のグラスをテーブルに置いた店員さんに、バナナマフィンとコーヒーを注文する。彼女はにこりと笑顔を見せて、「かしこまりました!」とキッチンカウンターへ戻っていく。
店内に客は僕一人だと思っていたら、ドアが開いて、「こんにちは」の声と共に若い女性が入ってきた。店員達と知り合いなのだろう。なにやら話をしている。と、なんとはなしに眺めていた僕の視線と、女性客の視線があった。
「剣(つるぎ)兄ちゃん?」
「えっ」
かつて僕をそう呼んでいたのは、幼なじみの何人か。改めて彼女に目を向ける。肩下まで伸びた茶色の髪。人懐っこそうな丸い瞳。大きめの口。Tシャツを着ているのにさほど目立たない胸。ショートパンツからすらりと伸びた細い脚。
「もしかして、美子(みこ)?」
「そうだよ! え! 剣兄ちゃん帰ってきてたの? いつ? 実家にいる?」
質問を投げかけながら、美子は僕のいる席に近づいてくる。
「知り合いの方?」
「そう! 剣兄ちゃんって、実家の近所だったの!」
店員達にそう言いながら、彼女は僕の目の前の席にすっと座った。
「何日か前、帰ってきたばかりで……。あ、実家にいる」
「雰囲気変わってないね。東京なんて行って、すごい都会人になったらどうしようって思ってたけど」
美子はくったくなく笑う。
「僕、変わってない?」
「うん。剣兄ちゃんのままだ」
嬉しいような、でも少しは変化していると見なされてもいいような。
「何年ぶりだろ? 兄ちゃんが大学行ってからだから……もう6年とか経ってるの?」
「そうだね。美子、高校卒業したよね。今、何してるの」
「ホテルのフロントだよ」
僕らが近況報告をしている間に、女性店員さんがマフィンとコーヒーを運んできてくれた。
「あっ、私もバナナマフィンにする! あとカフェラテ」
「かしこまりましたー」
実はあまり、昔の僕を知る人には会いたくないような気持ちでいた。だって東京から戻ってきた僕は、都会で夢破れてこの島に逃げ帰ってきた僕は、惨めじゃないか。それをどこまで話そうか。
「ここは変わんないよー、全然。あ! でもこのお店みたいに、少しおしゃれになってると思うけど」
うん、と頷く。マフィンを一口食べる。甘さは控えめで、おいしい。
「ところで」
美子に問いかけられて、僕は身構える。帰ってきた理由を聞かれるような気がした。
「結婚?」
真面目な顔で問う美子の姿に、思わず笑みがこぼれた。
「あれ、違うの?」
ほんの少しでも、笑えた自分が、嬉しかった。笑いを呼んでくれた美子に、心の中で感謝した。
「違うよ。なんていうか……。仕事のし過ぎみたいな」
僕の言葉で、帰郷の理由を察しただろう美子は、少し表情を曇らせた。そして言葉を探している。
「気にしないで。ほら、出歩けるくらいには元気だから」
そう言って、笑顔を作る。うまく作れた気がしないけれど。
「こっちでのんびりしたらいいよね」
美子の注文が運ばれてきた。美子は嬉しそうに早速、マフィンに手を伸ばす。
「美子こそどうなのさ、結婚は早いにしても、恋人とか」
「あ、えっと」
ちょっとした話題程度に振ったのだが、禁句だったろうか。美子が困っているようだ。
「あ、ごめん」
「ううん、違う、いるの!」
「そうなんだ」
「うん」
恋人と喧嘩中とか……? 美子があまり楽しそうには見えなかったのが、気になった。
転院先のクリニックに行って、初めての診療を済ませた。東京の医者よりも、丁寧に話を聞いてくれたような印象があった。都会のクリニックはとにかく患者が多いのだ。3分診療になるのも仕方がない。
転院にあたって、提出しなければならない書類を何枚ももらい、説明を受けた。クリニックを出たら、疲れを感じた。どこか休憩するところはないだろうかと、スマートフォンを操作する。少し先にカフェがあるようだ。そこまで歩こう。カフェの近くには、レンタルビデオ店もある。そこには本も売ってるだろうか。何か暇つぶしになる本を買おうかと、僕はビデオ店まで足を伸ばすことにする。
ビデオ店の駐車場で、男の怒鳴り声が聞こえた。
「早くしろよ!」
「だって、レジ混んでて!」
「そんなの見越して行動しろよ、おまえとろいんだから」
「ごめんなさい」
女の子が一方的に叱られている。かわいそうだ。もう一度ちらりとそちらを見て、僕の視線は彼女で止まった。
美子だった。足早に歩いて行った男の後を一生懸命追っている。
「遅い!」
「ごめんなさい」
気分が悪くなった。美子は謝っているじゃないか。いくら待たされたのか知らないが、そんなに怒ることなのだろうか。男は黒い車のドアを乱暴に開けて、乗り込む。急いで助手席に美子が乗り込む。助手席のドアが閉まりきるのも待たずに、車は発進した。まさか、あの男が、美子の恋人なのか?
僕の頭から美子と男の姿が消えなかった。恋人について尋ねた時に、あまり楽しそうではなかった美子。ああいう男だからなのか。いや、他人の僕がいくら考えたところで何にもならない。やめよう。やめよう、と思うのに、頭は先程見た映像を繰り返し流してくる。
「剣さん、いらっしゃいませー」
近所のカフェ、Blue Starに何度か顔を出すうちに、店員の二人は僕を覚えてくれた。
「こんにちは。えっと、何にしようかな……」
「スコーン焼き立ておすすめです!」
笑顔でアピールする彼女は、結(ゆい)さんという。美子とお店で一緒になった時に、教えてもらった。
「じゃあ、スコーン。と、コーヒーください」
「かしこまりましたー」
カウンターに戻る結さんのポニーテールがゆらゆら揺れるのを見届けて、僕は鞄からノートパソコンを出した。ツールを立ち上げて文章を打っていると、結さんがスコーンとコーヒーを運んできた。
「お仕事ですか?」
「一応」
「わー、なんかかっこいいですね! 何のお仕事か聞いていいですか?」
興味津々といった顔で結さんは尋ねてくれた。
「ネットで使う簡単な文章を打ってるだけだよ」
そう。情報を集めて記事にする、という、クラウドソーシングに山のように溢れている仕事。もちろんそれだけで食べていけるわけはない。けれど、何も仕事をしていないという状況に不安になって、始めた。
「文章書けるんですね! すごい」
「ありがとう」
僕にしか書けないものを書いているわけではない。誰が書いてもいいものを書いているだけだ。それでも、僕は、何か達成感を得られるものにすがりたい。求めて、求め過ぎて、心身が壊れるまで続けてしまった仕事というものから離れてこの地に戻って来たのに。僕は僕を支えてくれるものを、仕事の他に知らないのか。
平日の午後、カフェにはお客さんも少ない。結さんと、店長の真鍋(まなべ)さんも、いくらか落ちついている感じがする。今なら無駄話をしても大丈夫だろうか。お水を入れに来てくれた、結さんに話しかける。
「あの、美子のことなんだけど……」
「美子ちゃん? 何ですか?」
「彼、いるよね」
「彼、ですかー」
水を注いだグラスをそっとテーブルに置きながら、結さんは困ったような顔をしているように思えた。
「いますねー……。あ! まさか剣さん、美子ちゃん狙い?」
「違う違う」
慌てて両手を振る。
「なんか、その、彼が……ちょっと怖いというか……そんなことない?」
結さんは口をつぐんだ。
「僕の……考え過ぎだったらいいんだけど」
「あー、えっと……」
結さんの言葉は途切れて、続かない。
「ごめんなさい、変なこと聞いて」
「いえ! 私こそ、ごめんなさい!」
結さんのこの不自然な態度は、何か僕には言えないことがあるからではないか。
「剣さん」
レジで会計を済ませて、ドアの方に向いた僕を、真鍋さんの声が引き留めた。
「はい?」
「美子ちゃんの彼だけど……」
「あっ……」
いつもおおらかな雰囲気を漂わせている真鍋さんの、こんな困惑したような表情は初めて見た。
「あの二人にしかわからないことが、あると思う、だから……」
僕の出る幕ではない、ということか。
「ごめんなさい。出過ぎたまねをして」
「ああ、いや、幼なじみだしね、気になるよね」
そう真鍋さんは言ってくれたけれど、僕には、自分の言動が恥ずかしく思えていた。
起きあがることができない。
ここに来てからは、遅くとも昼前には起きられていたし、外を歩くこともできていた。こんな状態になったのは、久しぶりだ。
理由はわかる。美子の恋人について詮索した自分に嫌気がさしたのだ。僕が彼を見たのは、ただの一度だけ。彼が極端にいらだっていた時を、たまたま見てしまっただけかもしれないのだ。普段は優しい人なのかもしれない。それを勝手に、悪い男だと決めつけて、事情を知っていそうな人に聞いてみたりして。僕は美子の、幼なじみでしかないのに。しかもここ数年の彼女のことは何も知らないのに。
布団を被り直す。起き上がる気力がない。自分のことも満足にできない僕に、他人のことをどうこう言う資格なんかない。
ようやく布団から這い出せたのは、夕方だった。のろのろと歩き、デスクにあるノートパソコンを開く。仕事、締切が明日だった。椅子に腰掛けて、まだぼんやりとしたまま、キーを叩く。文章らしきものができていく。
できた、と思ったら、部屋が真っ暗だった。成果物を送ってしまってから、立ち上がる。何か、食べたほうがいいのだろうけれど、食欲がわかない。立っていられなくなって、そこから引力でも発生しているかのように、ベッドに潜り込んでしまう。
しばらくそんな日々を過ごした。あまり食べていないので母さんが心配するのだが、食べても気持ちが悪くなってしまう。そっとしておいてもらうのが一番いい、と母に頼み込んだ。
喉が渇いたので、水を貰いに下へ降りた。母さんと、父さんもいた。今日は日曜日だろうか。曜日の感覚なんて、とっくに失っている。
「具合どうだ」
「うん、まあ」
「ちょっと出かけないか。気分転換に」
正直、気乗りしなかった。でも父さんが心配しているのだろうと思うと、無碍に断ることもできなかった。
「あんまり、賑やかな所はちょっと」
「そうだな。いい所がある」
父さんの運転する車に乗って、数十分。車は海岸に着いた。家の近くにも海岸はあるが、そこよりも手付かずの、整備されていない、人気のない海岸。駐車場的な空き地に車を停める。草を乗り越えて進むと、すぐに砂浜が現れる。さくさくと砂を踏み、海辺へ向かう。
「ここは観光客もあまり来ない」
父さんが後から付いてくる。波打ち際まで歩いていく。寄せて、返す波を、僕はただ見ている。
「昔来たことがあるけど、覚えてないか」
「え、そうなの」
「おまえが小学生の時かな。混んでない海に行きたいって」
ああ。近所の海は、子供達で賑わうからな。そんなわがままを言ったこともあったっけ。
水平線を眺める。真っ直ぐなそれが、異様に眩しい。海面は光を反射して、きらきらと揺れている。手を伸ばして、海水に触れる。思いのほか冷たくて、僕の目はやっと覚めたような気がした。
「海の向こうには何があるの? って、小さい頃、父さんに聞いたような気がする」
座り込んだまま、僕は隣に立つ父を見上げて尋ねる。
「そうだったな」
「たくさんの人がいて、たくさんの物がある、みたいなこと言われた」
砂に指で丸を描く。すぐに波で消されてしまう。
「海の向こうに行きたいって、僕、言ったよね」
また砂に丸を描く。消される。ぐるぐると描く。消される。
小さい頃の僕の夢は、叶った。僕は大学から東京に行かせてもらった。海の向こう。たくさんの人がいて、たくさんの物がある場所。
「父さんと母さんのおかげだよ。東京行けたの」
「おまえが受験頑張ったからだろ」
「でも、学費とか」
「それくらい大丈夫だ」
学費とか、出してもらったお金のことも気になるけれど。夢だったはずの場所で、僕はうまく生きられなかった。現実は、ずっと厳しかった。たくさんの人と、たくさんの物。それらが自分を攻撃するものになるなんて思わなかった。
「ごめんなさい」
「謝ることは何もない」
「でも」
「おまえが今、ここにいてくれることが、一番だ」
ぐるぐるぐるぐる。描き殴った丸を波が消していく。まっさらになった砂浜。僕の中の醜い感情も、こんなふうに波がさらって綺麗にしてくれないだろうか。
Blue Starに行くのは気が引けた。でも、僕が必要以上に美子の恋人について気にしていないことを示すためにも、普通に訪れたほうがいいんじゃないかと思った。こう考えているのがもう、気にし過ぎているのだけど。時間は15時を過ぎて、おやつにちょうどいい時間だ。何かおいしい焼き菓子ができているかもしれない。気力を振り絞って歩いていくと、店の前に、結さんが黒板を出してきたところだった。
「剣さん! 今日のマフィン、ブルーベリーがおいしいですよ!」
黒板に描かれた、かわいらしいマフィンの絵を指しながら、結さんが呼び掛ける。
「じゃあそれにします」
「はーい」
髪を二つに分けてしばっている今日の結さんは、ちょっと幼く見える。
「こんにちは」
「ああ、いらっしゃいませ」
店内に入ると、真鍋さんもいつもと同じように声を掛けてくれた。二人に嫌がられてはいないようで、ほっとする。
「ブルーベリーマフィンと、コーヒーください」
注文して、隅っこの席に座る。すぐに結さんがお水を持ってきてくれた。お礼を言って受け取って、口を潤す。そしてノートパソコンを取り出して、起動する。あんまりうるさくならないように気を付けながら、キーを打っていく。
「お仕事大変です?」
マフィンとコーヒーをテーブルに置いて、結さんが尋ねた。
「接客業のほうが大変だと思うよ。少なくとも僕からしたら」
「そうですか? 私、接客しかしたことないからなあ」
「結さんは接客業向いてるよね」
「そうですか? 嬉しいです!」
結さんはトレイを両手で抱えて笑った。こんな小さな褒め言葉にも反応して、喜んでみせてくれる。僕にも彼女の、せめて半分くらい愛嬌があれば、また違った道があっただろうに。なんて、ないものねだりをしてもしょうがない。
「剣さんの文章、読めるところってありますか?」
「えっ」
お客さんがいなくて暇なのか、結さんがテーブルを離れない。
「ないですか?」
「あ、あるにはあるけど、別に面白くは……あ、いや、仕事で書いてるから面白くしてるつもりだけど、そんなこと自分で言うのも……」
言いよどんでいたら、結さんに小さく笑われた。
「剣さんって、意外と面白い人ですよね」
「え?」
それは褒めて……ないよね……。結さんはにこにこしているけれど。彼女に合わせてなんとなく微笑んでみた。その時、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ! あっ、美子ちゃん」
美子は長いスカートをはいているせいなのか、歩きにくそうにしている。
「ロングめずらしいねー」
「うん、たまにはいいでしょ」
そんな女の子同士の会話をしながら、美子は僕に向かって手を振る。足をひょこひょこさせてこちらにやってくる美子は、やはり少し変だ。
「剣兄ちゃん、久しぶりだけど、元気にしてた?」
「それよりも、美子のほうが。足、怪我でもした?」
「あ、これね」
美子はゆっくりと僕の向かいの椅子に腰掛ける。
「転んで、足、くじいちゃったんだよねー」
そう言ってみせたけれど。
「痛くない?」
「うん、でも歩けるし、大丈夫」
「美子ちゃん、気をつけなきゃー。はい、お水どうぞ」
「ありがとう」
美子は喉が渇いていたのだろう、ごくごくと水を飲んだ。そして一息つくと、僕の手前にあるマフィンを見て、言う。
「今日はブルーベリーか。おいしそう」
「あ、ああ、おいしいよ」
「私もそれにしよっと。すいませーん」
美子はそれから足のことには触れなかった。だけど、時折痛そうなそぶりを見せるものだから、気になって仕方がない。
「美子、送ってくよ」
「え? なんで?」
そろそろ帰るねと、足をかばいながら立ち上がった美子に言う。
「ほら、足。やっぱり歩きにくいだろ。転びそうになったら、僕が支えにはなれる」
「大丈夫だって、本当」
そう言いながらレジに向かう足取りがおぼつかない。
「だめだ。不安で見てられない。僕の不安をやわらげると思って、頼む」
美子の後を追って、会計を済ませる。彼女は明らかに困惑している。いや、迷惑なのだろう。
「じゃあ、そこのスーパーまででいいよ。買い物もしなきゃいけないし。ちゃんと歩けるの、確認できたら、それでいいよね?」
「ああ」
結さんは不安そうな顔で僕らを見ていたが、ドアを開ける美子に気づくと、慌てて「ありがとうございました!」と見送ってくれた。
「本当、大丈夫なんだってばー。剣兄ちゃん、心配し過ぎだよ」
「でももう薄暗いし……何かあってからじゃ大変だ」
夕暮れの道を、美子と二人、ゆっくり歩く。大丈夫と美子は言うが、明らかに足をかばっている。
「本当に……」
「ん?」
こんなの、僕の妄想であってほしい。
「自分で転んだの?」
笑い飛ばしてほしい。何言ってるのって。なのに、美子からはなんの言葉も返ってこない。
「美子」
前方から、男の声が聞こえた。声に、怒りがにじみ出ている。美子が体をびくりと震わせた。
「あっ、あの、今から買い物して帰るところで」
「遅い」
薄暗がりでわかりにくいが、あの時の男ではないか? レンタルビデオ店の駐車場で見た。美子に文句を付けていた男。
「どちらさま?」
怒りの矛先が僕に向いた。
「僕は」
「剣兄ちゃん! って幼なじみなの! カフェで会っただけだから」
自己紹介より先に、美子が慌てて説明した。
「早くこっち来い」
その言葉で美子は駆け出そうとして、脚をもつれさせた。地面にばたりと倒れる。長いスカートがめくれて、脚が露わになった。その白いふくらはぎに浮かんでいるのは、あざじゃないのか……?
「転んでんじゃねーよ」
男は美子に近づき、彼女の右手を掴み、引っ張る。その動作があまりにも乱暴で、僕は声を上げる。
「やめてください。怪我してるんですよ!」
「怪我? かすり傷だろ、こんな程度でふらふらして」
彼は美子を引っ張り上げて、無理やりに立たせた。そして僕を睨む。
「幼なじみだかなんだか知らないけど、構わないでもらえる? 美子、早く帰るぞ」
「あの、ごめんなさい、私は大丈夫だから」
僕に向かって美子が言った。
「はあ?」
その言葉が彼の怒りを増長させた。
「俺が悪いみたいに言ってんじゃねーよ!」
彼はだん、と足で地面を蹴った。
僕の妄想と現実が一致した。
きっとこんなふうに、彼は美子の脚を蹴った。何度も、何度も。立てなくなるまで。白い脚が汚れるまで。
「あなたですね。美子の怪我の原因」
鋭い視線が、僕を射る。怖気づいてしまいそうな心を奮わせるように、拳を握りしめる。男が近づいてくる。
「だったらなんなの? あんたに何の関係があるわけ?」
男は僕の目を見据えたまま、顔を近づけてくる。
「幼なじみだから。見過ごせない」
「へえ」
「剣兄ちゃん! いいから! 私、大丈夫だから!」
「おまえは黙ってろ!」
美子を叱り飛ばして彼は、もう一度僕を睨む。
「あんたに何がわかるってんだよ」
「わからない。けれど、暴力はよくない」
「暴力はよくない、だってさ」
さ、と言い終わらないうちに彼は、僕の顔目掛けて右手の拳を突き出してきた。そう認識できた時には、殴られていた。それまで考えていたことが全て飛んでしまうような衝撃。そのあとにじわじわと生まれる頬の痛み。殴られた左頬がそこにあることを確かめるように左手で抑える。
「暴力はよくない、なんて言うからには、あんたは暴力をふるわないんだよな?」
今度は右の頬から衝撃が走った。その威力に僕はよろける。倒れそうになる。
「黙ってやられていればいいんだ」
彼の脚が、僕の脚を蹴った。その勢いで僕は後ろに倒れ込む。道路に腰を打ちつけた。悲鳴が漏れた。
「やめて! 陸(りく)! お願いもうやめて!」
「うるさいな、おまえまだ蹴られたいのか?」
「美子に暴力をふるうな」
「お? 喋れんの?」
彼の言葉が頭上から降ってくる。彼は、倒れた僕の下半身を何度も蹴りあげる。
「何も知らないくせに、何もわからないくせに、偉そうなこと言ってんじゃねーよ」
「やめて、お願い、陸の言うこと聞くから、お願い」
美子が泣いている。小さい頃から、美子を泣かせた奴は、ずっと僕がこらしめてきたのに。もうそれもできなくなってしまっていたのだ。
僕はますます布団から離れられなくなってしまった。幸い、打撲程度で済んだが、顔は酷く腫れ、体中が痛みを発している。外はもう明るいけれど、立ち上がる元気がない。
何も知らないくせに、何もわからないくせに。あの男の言葉が頭の中で繰り返す。そうだ。ずっとここを離れていた僕より、彼のほうが今の美子を知っているだろう。真鍋さんが言っていたように、二人にしかわからないこともあるだろう。僕の発した感情なんて、正義感に似せた自己満足だ。
寝返りを打ちたいが、痛くてなかなかできない。心を決めて、えいやっと、試みた。
「痛……」
かすれた自分の声が、酷く惨めに聞こえた。僕は、ここで、何をしているのだ。東京で何もできなくなって、戻ってきて。すぐにやるべき何かが見つかるはずはないにしても。ここならば、もう少し、楽に生きていけると思っていた。ずっと暮らしていた、ここならば。あまり多くの人はいない、あまり多くの物はない、ここならば。僕の心をざわめかせるものも多くはないはずだと、思っていた。ここも、変わらないのか。どこも、同じなのか。
ドアをノックする音と共に、僕を呼ぶ母さんの声が聞こえた。
「起きてる?」
「起きてるよ」
答えたらドアが開いた。母さんと、その後ろには、美子がいた。すぐには起き上がれない。
「ああ、寝たままでいいから。ごめんね、こんな格好だけど、美子ちゃん」
「いいえ」
美子は僕のベッドの側まで来て、両膝をつく。母さんは部屋に入らずに、ドアを閉めていった。
「剣兄ちゃん、喋れる?」
「うん。美子、どうしたの」
「謝りにきたの。ごめんなさい。こんなに酷い目に遭わせてしまって。陸の代わりに謝ります」
そう言って美子は、頭を床に付きそうなくらいまで下げた。
「いいよ、頭上げて」
僕の言葉に、頭を上げた美子の顔が見えた。今にも泣きそうな顔。
「美子は、脚、大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんとお医者さんにも診てもらったよ」
「ちょっと安心した」
美子は、泣いてしまいそうになるのを、必死でこらえている。僕はゆっくりと、美子のほうに体を傾ける。
「陸っていうの、彼」
「うん」
「彼のどこが好きなの?」
非難するわけではなく、単純に聞いてみたかった。暴力をふるわれ、暴言を吐かれても持ち続けられる好意の元は、どこにあるのだろうかと。
「優しいところ」
きっぱりと、美子はそう言った。
「信じられないだろうけど、陸、本当はとても優しいんだよ。私だけにじゃないよ、みんなにだよ」
冷静に受け止めようと思った僕だったが、驚きが顔に出てしまったのかもしれない。美子は説明を続けた。
「でも、あのとおり、短気なところもあって……。上司の人とうまくいかなくて、お店を辞めることになって……。それからイライラしてる……」
「そっか……」
だからと言って、恋人に当たっていい理由にはならないと思う。そう、美子に言ったところで、どうしようもないのだけれど。
「美子は、彼と一緒にいて、幸せ?」
「うん」
即答できる美子が、羨ましくもあり、疎ましくもあった。
「それは、本当の幸せなのかな」
本音が、漏れた。
しかし、出てしまった言葉は取り消せない。
「私は、それが幸せだと思ってる」
美子はじっと僕の目を見つめて、そう言った。
「剣兄ちゃんは、私よりずっといろんなことを知ってるから、きっと、いろんな幸せを知ってるよね」
「そんなことは……」
「私の幸せは、間違いの幸せなのかな」
美子の目に、涙が浮かんだ。すぐに溢れて、床に落ちた。
「ごめん」
僕は美子に手を伸ばす。美子は僕の手を取りはしない。
いろんな幸せを僕が知っているのなら、美子が幸せだと言うものだって、幸せの一つだと認められるはずだ。本当の幸せを知らないのは美子じゃなくて、僕だ。
最初に殴られた左の頬が、まだ痛い。鏡で見たら、あざになって少し紫色になっている。こんな顔を道行く人が見たら、怖がるだろう。だから、せめて、薄暗くなった時間に家を出た。近くの海岸へと歩く。向かう先に、人の姿はない。もう、海に遊びに来る子供達は帰っただろう。
悩みがある時は、一人で海に来ていた。何をするでもなく、ただ浜辺に立って、波を見る。寄せて、返す、その繰り返しを見ている。少しずつ違う繰り返しを、見ている。そのどれもがたったひとつの瞬間に弾けて、消えていくのを、見ている。時間が流れていることを感じる。そこにあるものが変化していくことを感じる。時間は僕にも流れ、僕も変化していくのだから、今、僕が悩んでいることもいつか形を変えていくだろう。そう思うことができる。
その変化を、良い方向に設定するには、僕自身の努力が必要なのだけど。今、僕は何をして、どう動けばいい。どうすれば、いい。
辺りはすっかり暗くなっている。空も海も、色を暗く変えている。
返す波を追いかけて、海へと進む。サンダルの足に冷たい水がかかる。そのまま進む。足首が水に浸かる。ジーンズに水が染みてくる。僕の脚の周りで、波がうごめいている。進む。腰まで海に入っている。これ以上進むなら、僕は帰れない。海は簡単に表情を変えて、僕を飲み込む怪獣になるだろう。わかっている。でも、戻りたくない気持ちが消えない。
そのまま、しばらく、海の中に立っていた。何を考えていたわけではない。ただ、波が自分の周りで動いているのを感じていた。僕を流そうとする力と、僕を戻そうとする力。僕を取り込もうとする力と、僕を排除しようとする力。どちらに従うかは、僕次第だ。
僕は浜辺へと歩き出した。戻ろう、と思った。今は、どうすればいいのかわからないのだから。まだ、地上で迷えということだと、解釈した。
久しぶりにBlue Starに顔を出したら、結さんが泣き出しかねない勢いで心配してくれた。まだ顔の腫れも引いていない。真鍋さんも驚いていた。
「でも、だいぶ良くなったから、心配しないで」
「これで良くなったって、どれだけ酷かったの」
「痛くないですか……?」
「もう、そんなには。だから大丈夫」
隅っこの定位置に座って、ノートパソコンを開く。結さんではなく、真鍋さんが注文した、ニューヨークチーズケーキとコーヒーを持ってきた。皿をテーブルに置いたあと、真鍋さんはエプロンのポケットから、二つ折りになったメモ用紙を取り出した。テーブルに置く。
「剣さんが来たら、渡してほしいって」
真鍋さんが去った後に、メモを開く。
「すみません、ちょっと、電話かけてきます」
僕はスマートフォンだけ持って、席を立った。
浜辺に降りたら、彼がいた。吉屋陸(よしやりく)。美子の恋人。メモ用紙には「謝りたいです」の文字と、名前と電話番号が書かれていたのだった。吉屋さんは僕を見つけると、どこかばつが悪そうな表情で、歩いてきた。彼と向かい合う。
「その、申し訳、ありませんでした……」
彼は深々と頭を下げた。
「いいです。頭、上げてください」
正直、いいです、とは言いにくい心情だったけれど。彼と美子の間の複雑な問題に、僕は土足で踏み込んだようなものだったと、今は思うから。
「僕も……悪かったです。何も知らないのに」
「だけど、普通、女の子が怪我させられてたら、怒るのは当然、ですよね」
そう言い返してきた彼は、落ち着いているように見える。でも、あまり刺激したくない。
「……そうですね」
微妙に距離を取って突っ立ったままの僕らの横を、子供達が歓声を上げながら走り去っていく。その様子を吉屋さんは追った。
「小さい頃の美子って、どんなでした?」
僕の頭の中に、幼い頃の思い出が蘇ってくる。好奇心旺盛で、なんでもやってみたくって、でもすぐに驚いて、よく泣いていた、美子。遊び回ってばさばさになった美子の茶色い髪を、撫でてやった。
「泣き虫だけど、行動力はあって。何するかわからないから、ほっとけない感じでした」
頭の中のイメージから、美子についての説明をそのような言葉にした。
「昔から変わらないんですね。よく泣くの」
僕の部屋で涙をこぼした美子を思い浮かべる。僕の言葉が原因で流れたその涙を、止めてあげることはできなくて。
「だからって、泣かせていいわけは、ない、ですよね」
吉屋さんがゆっくりとそう言った。本心から、彼がそう思ってくれているのなら、僕には何も言うことがない。
「俺、病院行きます」
彼の顔を見る。口元をきっと引き締めて、遠くの方を見据えていた。視線の先には水平線が真っ直ぐに引かれている。
「本当に、美子のこと、好きだから」
今、この瞬間。彼の言葉は本当なのだ。もしかしたら、その気持ちが揺らぐことはあるかもしれない。でも、その時はまた、この瞬間をどうか思い出してくれないだろうか。
「信じます」
今、この瞬間。僕の言葉も、本当だ。
吉屋さんは僕に礼を言い、帰っていった。僕はまた、波を眺めている。ああ、Blue Starに置かせてもらった、荷物を取りに行かなければならない。営業時間は何時までだっけ。夜は開いてないはずだ。子供達はそろそろ帰宅の時間だろうか。我先にと駆け出していく彼らを見送る。脚の早い子、遅い子、みんな必死に走っている。そんなに一生懸命にならなくてもと思うくらいに。子供達はいつだって全力で生きている。僕だって昔はそうだった。
人気の少なくなった浜辺を、歩く。
橙色の空の中に灰色の雲が、自己主張するように広がっている。橙、赤、紫、紺、黒。空に広げられた絵具は、他の色と交わりあいながら、形を変える。次第に黒ずんでいく空は、燃料を失い燃え尽きる火のようだ。燃やし続けた今日の火が消えて、眠りにつく。闇が辺りを包み込む。でも何も恐れることはない。また明日の火が灯されるのだから。朝が来て再び出会う太陽は、僕のことも照らしてくれる。誰とも変わらずに、皆に、同じに。どこにいようとも。誰といようとも。
「剣さん!」
急に声を掛けられて驚いた。結さんが、側に来ていたことに気付かなかった。
「ご、ごめん、ぼんやりしてて」
「いえ、見つけられてよかったです」
結さんは、お店に置かせてもらった僕の鞄を、両手で抱えていた。
「ごめんなさい! 鞄、重かったでしょう!」
慌てて僕は鞄を受け取る。
「パソコンも持ってきました。だから持ってるの緊張しちゃいました」
「気を使わせてしまって……。もうお店閉まっちゃったよね?」
僕、お代を払ってないぞ……。次にまとめてでいいだろうか……。
「いえ、正確にはまだ片付けてるんですけど、店長が、鞄持っていってあげてって」
そう言って結さんは、少し表情を硬くした。
「それに、心配だったから……」
僕をぼこぼこにした相手と、二人で会うんだもんな。心配もされる。
「ありがとう」
「でも、大丈夫だったんですよね?」
吉屋さんがいないことを確かめるように辺りを見回しながら、結さんが聞く。
「うん。大丈夫、だと思う」
「剣さんが何もされてないなら、よかったです!」
結さんは、ぱっと笑顔を見せてくれた。
「それに、美子とのことも。大丈夫だと思いたい」
それを聞いた結さんは、うつむき加減で、肯いた。
「そうだと、いいです。私、美子ちゃん好きだから、幸せでいてほしいです」
「幸せ、ね、うん……」
それは、本当の幸せなのかな、なんて僕は美子に尋ねた。尋ねた僕が、幸せなんてどういうものか、わかっていやしなかったのに。だから聞いてみたくなった。
「結さんの幸せって何?」
「え? え? 私の幸せ?」
焦る結さんを見て、しまった、と思った。変な事を聞いてしまった。
「好きな人と、一緒にいること……ですね……」
でも、結さんは恥ずかしそうに答えてくれた。
「そうか。好きな人がいるんだね」
「は? は、はい」
「幸せでいられるといいね」
結さんと、僕の知らない誰かの幸せを、僕は本心から願った。
「え、えっと……その……」
「ん?」
「それは剣さんの心次第だと思うんですけど!」
そう一気に言うと、結さんはあちらを向いてしまった。えっと、それは。その。
「結さん?」
「わー、星が綺麗!」
突然そう言い放つと、結さんは海に向かって歩き出した。僕は彼女の跡を追う。
「うん、綺麗だ」
夜の闇は全てを覆いつくすけれど、その隙間に小さな希望を見せてくれている。希望である星が光っているから、夜中だって歩くこともできる。真夜中でも一人きりじゃないと思える。星空を見ることも忘れていた。星は変わらずそこにあったのに。小さい頃は覚えていた、たくさんの星の名前。もう一度調べてみてもいいかもしれない。
波打ち際を歩く結さんの足に、波がかかる。暗い色の波飛沫。でもそれは、何か優しいもののように、僕には思えた。彼女の足取りを静かに見守っているような。密やかに祝福しているような。
海の向こうへ行きたくて。出かけて、帰ってきた。そんな僕を、この島は再び受け入れてくれたのか、どうなのか、わからない。海は、誰が来てもただ波をよこしてくる。けれど引いていく波を、掴むことはできない。何も変わらない繰り返しの中、何かを微細に変えながら、ずっと、ここにある。僕は海の向こうでいろいろなものを失った。だけどその分身軽になれたのかもしれない。何も持っていないから、できることもあるだろう。ここから、新しく、始めたらいい。
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