見出し画像

楽しくないものがあってもいい

記事があんまり読まれてないなと思う。それは寂しい。
だが、最近の私の記事に楽しい物は少ないので、仕方がないと思う。むしろ楽しくない、ネガティブな雰囲気の物が多い。多くの人はポジティブな物を読みたいのではないかと思う。

ただ、ネガティブな物が必要とされる時もあるのではないだろうか。どうにも気持ちを上げられない時。わかっていて沈んでいたい時。こんなに落ち込んでいるのは自分だけではないと知りたい時。

「自分と同じような人がいる」と安心してもらえたらいいと思う。自分と全く同じ悲しみやつらさを覚えている人間はいないが、「悲しいな」とか「つらいな」とかいう気持ちをうまく扱えずにいる人間は、自分の他にもいる。そういう人間がいたからといって自分の状況の何が変わるわけではないのだが、「わかる」感覚は、他人に向けることも、他人から向けられることも、大抵の場合、喜ばしいことである。

「自分より駄目な人がいる」と安心するのがいいことだとは思わないが、そう思うことで気持ちが少し落ち着くのなら、それでもいいじゃないかと思う。心の隅でこそっと思うだけなのだ。何を思うのも、思うだけなら自由だ。申し訳なさが感じられたなら、その時点で止めればいい。

いいことしか起こらない人生のほうがいいかもしれないが、そうすると、いいことは日常になってしまう。希に起こるからそれは特別ないいことなのだ。いいことが希に起こり、いいことの起こらない日常がほとんどで、希に悪いことが起こる。悪いことも非日常であるだけに、出会った時の衝撃は大きい。ただ、非日常は続かない。いずれ日常に戻る。

非日常が日常になってしまう可能性もあるが、その場合はまた新たな非日常が生まれてくるだろう。そんなわけで、いいことばかり、あるいは、悪いことばかり続くことはない。

希ないいことへの対応より、希な悪いことへの対応のほうが難しくて、自分一人で抱えられないこともあるのではないか。そういう時に、悪いことに対応している誰かの姿が、参考例としてあったなら、助かるかもしれない。

どんな感情をまとった物であれ、存在していれば何かの役にたつかもしれない。別に他人の役に立たないとしてもいいと思う。何かが誰かから切り離されたその時点で、それがどんな感情によって生まれたのかを、生んだ者が客観的に認識できるようになる。そこでもう、生まれた物は役目を果たしていると思う。こんなこと思ってたのか、と思えることで鎮まる心がある。

結局、楽しくない気持ちを書き残すのは、楽しくない本人のためではないか。そういう姿も込みで、「楽しくないことをそういうふうに書いたり残したりしてもいいのか」と思ってもらえればいいのではないか、と思う。


お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。