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趣味と修行の境界線

私はときどき、修行をしてしまうことがある。

例えば、家が仏教なので「夏の仏教公開講座」に頑張って通った。秋に開催されていた「劇評講座」は、ちょっと日程や体力的に無理目の年もあったが、ほぼ通った。どちらも決して嫌いなことではない。むしろ興味を持っているので、どちらかというと好き、といえることなのだ。それでも「これは修行だ」と思わないと行けない時があるので、純粋な趣味とはちょっと違っているのだろう。

基本性質として怠惰で愚鈍な割に、私には成長欲求がある。いや、自分が怠惰で愚鈍、つまり駄目な人間だと思っているからこそ、少しでもいいから成長しなければと焦るのかもしれない。成長欲求は、それを満たすために何かに挑戦しようという意志を生み、継続の意欲を湧かせるので、良いものなのだと思う。

ただここで、基本が怠惰な私としては、挑戦や継続がつらくなってくるのである。「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」と思ってしまうのである。この態度がよろしくないことはわかっているが、生まれてくる感情を無視し続けることも心身によろしくない。そもそもが怠惰と勤勉の二律背反状態で、私の中身は非常に面倒くさいことになっている。頑張ったらいいのか、頑張らなくてもいいのか、常に迷っているのだ。

今は、修行的な「知識を増やしたいから未経験のものを見聞きしたい」と、趣味的な「何も考えず気軽に好きなものを楽しみたい」の間で揺れている。

ただ、趣味と修行は、はっきり分かれるものでもないのではないか。趣味が音楽鑑賞だったとして、好きなアーティストの音源を手に入れたり、ライブに行ったりするのは楽しいだろう。しかし、希少なライブチケットを入手したり、ライブグッズを買うために長時間並ぶとなると、楽しいだけでは済まないことになっているのではないだろうか。趣味が修業味を帯びてくるのである。

そして、ここでは趣味を楽しいもの、修業は厳しいものとして書いてきているが、厳しいから良くないわけでは決してない。修業を乗り越えたからこそ見える景色もあるだろう。厳しさも時には必要である。

趣味と修行の境界線上、どちらとも言い切れない場所で、今日も私はふらふらしている。今、懸命になっているこれは、趣味なのか、修行なのか。もうどちらでもいいような気がする。ただ、どちらであったとしても、それを体験した先には、何か自分にとって「いいもの」が待っていてほしい。そのいいもののことを世間的には「尊い」と言うのかもしれない。



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