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"成長"という言葉がこわい

どういう意図をもってそのことばを選んでいるのか、ということをよく考える。


たとえば "成長"ということばは、わたしの中では「感情的なことば」に分類される。しかも、かなり力が強い位置にある。


特に、対大人では

「だから成長しないんだよ」
「圧倒的成長!」 

みたいなシーンで使われがち。


客観的な、何かができるようになった事実というよりは、精神面な面もしくはトータルで見た上で、やや個人的な尺度でジャッジしているというか…。


そのことばしかピッタリハマらないことはもちろんあるんだけど。あまりにも簡単に、感情的で強いことばを放たれると思わず身がすくむ。


じぶんの中では「個人の感情が強いことばか、客観的なことばか」は区別されていることがおおい。その上で知らず知らずのうちに、客観的なことばをおおく使っている気がする。

そんなわたしは「冷たい」と言われがちだ。


逆に、「感情的なことばを多く使うなぁ」と感じるひともいる。あと、客観的なことばを使おうとしているけど、表情とか声色に感情がもれているとか。

それを見ていると、たしかに冷たいという感じはしない。これがその人たちがいう人間らしいということか、と思う。


他の人は、ことばを仕分けしているのか?

モヤっとするのは、感情的なことばを、さも一般的な・客観的なことばのように使われたとき。


ことばの仕分け方が違うのかもしれないし、そもそも何も仕分けしないで使っている人の方がおおいのか?


このあたりって実際に会話のテーマにするのはむずかしくて。身近な人がどういうふうに言葉選びをしているか、ってなかなか知ることができない。


もしこれを読んでくれた方で、じぶんなりのことばの仕分けがある、という方は気が向いたらコメントに語ってもらえると嬉しいです。


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