【小説】俺だってえっちな音声作品をつくりたい! 後編
「馬フィッシュさん、台本づくりの方はどうですか?」
その後数日経って、俺はシコファイターさんと通話していた。
「いやあ、勉強になることばっかりです。俺、創作のこと何にも知らないんだなって思い知らされました。よくこの状態でつくりてぇとか言えたなってちょっと反省してます」
「反省することはないですよ。最初はみんな何も知らないんですから。そうやってもがきながら初めての作品をつくって、売れて、何かをつくることの虜になっていくんです」
「そういえばふと気になったんですけど……音声作品ってどのくらい売れるものなんですか?」
「作品によりますが……僕の場合は、このくらいですね」
彼から伝えられた売上本数は、今の俺にはピンと来ないものだった。
「売上本数がそれってことは……単純に、値段×本数が利益ってことですか?」
「いえ、販売サイトにマージンを取られるので、実際は単価の半分くらいしか入ってこないです」
「半分!? そんなもんなんですか?」
「まあ作品の値段やサイトによって変わりますが……だいたい半分くらいですね」
「でも半分とは言っても、さっきの販売数だと……え!? シコファイターさん、めちゃくちゃ儲かってませんか?」
「はは……最近はそうでもないですよ。セールで割引して販売数が伸びてるだけの作品もありますからね」
「はー……そういうもんですか」
「でも一時は、会社やめて音声作品だけで食っていけたらな、って思ったこともありますよ。今となっては勢いで辞めなくてよかったですけどね」
「すごいですね……」
有料販売する以上、創作にも商売の側面はどうしてもある。
どうせなら売れるものがつくりたいよな。
また別の難しさがあるんだろうけど。
「そういえば馬フィッシュさん、イラストレーターさんはもう決めましたか?」
「あ、はい。この人がいいなっていうのは一応……まだ連絡は全然してないんですけど」
「じゃあイラストレーターさんへの依頼メール、私のやつ真似していいですよ。押さえておくべきポイントを押さえておかないと、怪しいメールだと思われて返事が来ない可能性もあるので」
「そうなんですか? ぜひお願いします!」
シコファイターさんから送られてきたメールは、以下の文だった。
〇〇様
はじめまして、同人音声作品のライターをしていますシコファイターと申します。
この度当サークルから発売予定の音声作品のイラストをご依頼したいのですが、以下の条件でご検討いただけないでしょうか?
【納品物】
・カラーイラスト 1枚
【報酬】
・3万3千円(税込)〜
不足でしたらお見積りください。
【納期】
・希望納期 12月末
(お見積りください)
【使用用途】
・ダウンロードサイトで発売する音声作品の表紙
・宣伝に伴うSNS、ブログ、販売サイト等へのアップロード、トリミング
【資料】
・サンプルボイス
・キャライメージ画像
・台本(キャライメージの参考にお送りしますが、無理にお読みいただかなくても大丈夫です)
【作品情報】
・幼馴染とのデートで夏祭りの夜に神社の裏で浴衣セックスする音声
【キャラ設定】
・天真爛漫な性格で、主人公のことが大好き。普段は活発だが、エッチの時は甘えたがりになってしまう。
・20代半ばくらい。
・エッチなことに慣れている。楽しんでいる。
(この情報とイメージ画像をもとにキャラデザをお願いします)
【イラスト情報】
・イラストサイズ比 横長 縦×横=3×4
・ファイル形式 jpg
・薄暗い神社で立ちバックでセックスしている
・遠くに夏祭りの明るさがある
・全身でなくてもある程度アップで大丈夫です
・二人とも浴衣
・ヒロインの胸ははだけて乳首まで露出している
以上ご検討いただいた上で、可能そうでしたらスケジュールと金額の見積もりをお願いします。
どうぞよろしくお願いします。
シコファイター
サークルHP:〜。
「へーイラストの相場ってこのくらいなんですね」
「カラーだと安くて3万円からのイメージですね。人によっては10万円と提示されたこともありますので、予算と依頼したさとの相談です」
「10万かあ。結構しますね」
「人気の方はスケジュールを抑えるだけでも大変です。ここは結構人によりますので要交渉です」
「なるほどなぁ。この資料のキャライメージ画像っていうのはなんですか?」
「それはですね、一次創作でキャラクターがまだこの世に出てない作品なので、キャラデザをイラストレーターさんにお願いすることになるじゃないですか。その参考に、ネットで検索して見つけたイラストや写真で自分のキャライメージに近いもののURLなんかを送るんです」
「なるほど。キャラデザの参考にイメージしているやつを送るんですね」
「そういうことです。言葉だけでもいいですが、画像があった方がイメージしやすいというのは実際に言ってたイラストレーターさんもいますね」
「そうなんですね。台本っていうのは先にできてないとダメなんですか? まだ何にもできてないんですが……」
「必ず必要というわけではないですよ。ただ、作品の設定やあらすじとキャライメージくらいは伝えておいた方がいいと思います。思ったのと全然違うものが納品されてしまうすれ違いは避けたいですからね」
「わかりました。参考になります! 真似して連絡してみますね」
「がんばってください!」
あれからシコファイターさんのメールを参考に、イラストを担当して欲しい人にメールを送ってみた。
以前読んだめちゃくちゃエロい漫画を描いていたエロ漫画家の方に、今回は依頼したいと思っている。
台本はまったくできていないが、お姉さんが乳首責めをする感じは多分確定なのでそのくらいで依頼することにした。
初めての依頼メールを送る緊張から、エンターキーを押す指先が震えた。
そしてメールを送ってから1週間後、寝転んでスマホを見ていたら画面に通知が来た。
“馬フィッシュ様 はじめまして、ご依頼ありがとうございます”
漫画家さんからの返事だ!
俺はガバッと飛び起きてメールの文面を見た。
馬フィッシュ様
はじめまして、ご依頼ありがとうございます。やぎこです。
ちょうどスケジュールが空いておりますので、ご依頼いただいた納期でお引き受けすることが可能です。
料金も3万3千円(税込)で問題ありません。
作品やキャラ設定、拝見しました。
お姉さんの乳首責めいいですね!
ぜひお引き受けしたいと思います。
キャラデザ立ち絵提出→イラストラフ提出→線画、下塗りまでのイラスト提出→完成イラスト提出
というステップでやらせていただく予定です。
まだ台本の詳細が決まっていないとのことなので、細かいシチュエーションなど決まりましたらお伝えいただいて、その後から取り掛かるのが間違いないかと思っております。
ただ後半になるほど大幅な修正は難しくなりますので、そのつもりでご指示いただけたらと思います!
どうぞよろしくお願いいたします。
やぎこ
憧れのエロ漫画家、“やぎこ”さんに引き受けてもらえた事実に、俺は布団を蹴飛ばして喜んだ。すごい人と一緒にやることになっちゃったぞ。
しかし落ち着くにつれ、徐々に緊張してきた。
やぎこさんがどれだけすごいイラストを描いても、台本もあっての音声作品なのだ。俺の台本がイマイチだったら、トータルの評価は下がる。
すごいイラストに助けられる部分は大いにあるが、イラストに頼ってばかりもいられない。むしろイラストを描く人と同じ作品をつくるメンバーとして、俺だってすごいものを出さないといけないのだ。
頑張ろう。
俺は本格的に台本づくりに取り掛かった。
数日が経って、俺はかなり悩んでいた。
台本づくりが思うように進まないのだ。
というより、すごくゆっくりとしか進まないというか……。
朝子さんやみるきぃさんに教わったことを元に、エロ妄想をする。よりエロいシチュ、キャラクターを掘り下げて、それがどうやったらよりエロく伝わるかの表現を考える。
時には他の作品の台本を眺めながら、よりエロいものを……そしてできれば売れるものをと頑張っているのだが、そもそも文章を書くのが初めてというのもあり、なかなか進まない。
あまりに捗らないので、「作業 進まない」でネット検索してみた。
すると“作業配信”というものがあることを知った。
クリエイターがやっていることが多いらしく、配信サイトで画面を共有したり、音声だけで通話などしながら制作することらしい。
ちょうど使っているSNSに音声通話配信の機能が最近追加されていた。
試しに俺は作業配信というものをやってみようと思い立ったのだった。
「えー配信タイトルは……台本制作、でいいか」
部屋をつくるイメージで、そこに同じSNSを使っている人なら好きに聞きに来れて、なんなら音声で通話もできるという機能だ。
「よし、やるか」
配信していると思うと、なんとなく緊張した。誰かに見られていたらもっと緊張するだろう。それでやらなきゃ感が出て捗るということなんだろうな。
しばらくの間は誰もいないカフェで作業しているような、良い緊張感を持って台本づくりに集中できた。
少ししてスマホの画面を見ると、見覚えのあるアイコンが表示されていた。
「——え、やぎこさん!?」
俺がイラストを依頼したエロ漫画家、やぎこさんのアイコンだった。手を振る絵文字が表示され、スピーカーのリクエストが来る。
俺は震える手でスマホの画面をタッチすると、やぎこさんのアイコンが点滅した。
「……こんにちはー、はじめまして〜」
「は、はじめまして! お世話になってます!」
「こちらこそお世話になってます〜。やぎこです」
やぎこさんはおっとりした声の女性だった。朝子さんといい、案外エロ創作をやっている女性はいるんだな……と驚く。
「馬フィッシュです。依頼引き受けてくださってありがとうございます!」
「いえいえ〜。ちょうどスケジュールも空いてましたし、最近ちょくちょく音声作品のイラスト依頼来るんですよ〜」
「そうなんですか。マジでやぎこさんの漫画好きなので、めちゃくちゃうれしいです」
「ありがとうございます〜! 馬フィッシュさんは元々音声作品をつくっていらしたんですか?」
「いえ、今回が初めてなんです。音声作品にハマったのも最近なんですけど、自分でもつくってみたいなって思って」
「いいですね〜。あ、私もこれからイラストの作業するので、よかったら作業通話参加させてもらえませんか?」
「もちろんです! 緊張します」
「あはは、緊張することないですよ。毎日してる作業を横で机並べてやるようなもんですから」
毎日する作業、か。この人にとっては創作をするのが当然なのだ。これがクリエイターなんだな、と俺はなんとなく背筋が伸びる思いがする。
「馬フィッシュさんは〜どういうシチュが好きなんですか〜?」
「あー乳首責めが主に好きなんですけど……細かいやつだと、エッチなことが始まったばっかりのときに、キスがだんだんねっとりしてきた頃にさりげなく女の子が乳首責めしてくるのとか、すごく興奮します」
初対面の女性と普通に性癖の話してるの、インターネットってすごいなって本当思う。
「あ〜わかります〜! 乳首責めもエロいですよね〜。あとやっぱキス!」
「キス、いいですよね」
「最近結局キスが一番エロいような気がするんですよね〜。キスだけのエロ漫画とか描きたいな〜」
「それは尖ってますね」
「でもキス描くのって大変なんですよね〜。アングルとか飽きさせないように工夫しなきゃだし」
「あーそうなんですね。絵は全然わかんないんですけど」
「いや〜これは創作共通だと思いますけど、創作って基本めんどくさい作業ばっかりじゃないですか〜」
プロの漫画家でもめんどくさいと思うものなのか。意外だった。
「漫画って絵描くのはそもそも大変だし、セリフも考えなきゃだし、構図も工夫しなきゃだし、コマ割りも配慮しないとだし……考えることがいっぱいだし、手を動かす量もすごいし〜」
「確かに漫画は作業多くて大変そうですね。台本は文章書くだけですけど、それでも考えることいっぱいで大変だなって思いますし」
「ね〜めんどくさいですよね〜。でも〜わたしめっちゃ断面図好きなんですよ。もう気がついたら全ページに描きそうになるくらい」
「え? あ、断面図ですか」
確かエロ漫画の挿入シーンで、女性器に男性器が入っている様子が断面で描かれる図のことだ。
「だから断面図うまくなりました。やっぱたくさん描いてるから〜」
「たくさん描いてるとうまくなる、はやっぱり真理なんですね」
「そうなんですけど〜、特に好きなやつならたくさん描いてても苦じゃないというか、描いてて楽しいじゃないですか。創作のめんどくさい部分を、好きって気持ちで乗り越えられるっていうか〜」
「ああ……なるほど」
「自分が好きなやつ描くのが一番ですよ〜」
好きって気持ちで乗り越えられる。確かにそれはあるかもしれない。
もし音声作品にハマっていなかったらこんなに大変なことはやっていなかっただろうと自分でも思う。
「あっ、そういえば聞きたかったんですけど〜、タイトルロゴってどうするご予定ですか?」
「タイトルロゴ?……あっ!」
「まだあんまり決まってない感じですか〜?」
完全に失念していた。
音声作品のタイトルをイラストに文字で入れてもらうのを、誰にやってもらうのか。
「すいません、正直全然考えてなかったです」
「ああいえ、全然。ただ私が一緒にやることになってたら確認しないとだな〜と思って」
「ロゴってお願いすれば一緒にやっていただけるものなんでしょうか?」
「あ〜だいたいデザイナーさんに頼むと思うんですけど、私ロゴデザインもやってるのでやりますよ〜料金は別でいただきますけど」
「本当ですか! 料金はもう、全然大丈夫なのでぜひお願いします!」
なんてラッキーなんだ。やぎこさんがデザインもできる人でよかった。
「料金はいくらくらいになりますか?」
「そうですね〜税込1万千円でどうですか? 2、3案くらい出します〜」
「ありがとうございます! それで大丈夫です」
「了解です〜イラスト仕上がってからそれに合わせてつくる感じで大丈夫ですか?」
「はい! もうその辺はお任せするしかないので」
「は〜いわかりました」
音声作品って思ったよりやることたくさんあるんだな。ただ台本を書くだけじゃなくて、作品全体のプロデューサーをやっている気分だ。実際そうなんだろう。
その後もたまに雑談をしたりしながら、俺は台本づくりに励んだのだった。
次の日の夜、俺はシコファイターさんと通話していた。
「どうですか? 台本づくりの方は」
「いやーなかなか進まないですね。よりエロいもので、できれば売れそうなものをって考えてるんですけど……」
「ふーむ。馬フィッシュさんなら大丈夫だと思うんですけど、つくりたいのか売りたいのか、っていうのは結構大事ですよ。どのくらい売れて欲しいとかってあるんですか?」
「まあ初めてだし売れなくても仕方ないかとは思いますけど……」
「その言い方だと、売れてほしさもちょっとありますよね?」
「ま、まあそりゃあ……」
「いや、別に悪いことじゃないんですよ。ただ、気をつけることがちょっと変わってくるんで」
気を付けることか。なんだろう。
「売りたいならトレンド読んで需要のあるものを、とか考えるんですけど、馬フィッシュさんの場合は作品づくり自体が初めてじゃないですか。初めて何かをつくる人がクオリティを保つ方法って、好きなものを好きにつくることなんですよ」
「好きにつくっちゃっていいものなんですか?」
「いいんです。同人ってわざわざ時間も手間もお金もかけて個人で作品つくってるわけだから、お金なんて度外視で好きなものをとにかくつくりたい! って人たちと競合して売らないといけないんです。だから好きでもないのに流行りだから、で作品をつくると、好きでつくっている人たちにクオリティで勝てないんですよね」
「はーなるほど」
「だから売るという意味でも、結局好きなものをつくるのがおすすめです」
「そうなんですね。俺ちょっと欲が出ちゃってたかもしれません」
「はは、好きなものをつくりたい欲に切り替えていきましょう」
「そうですね」
やぎこさんも結局好きなものをつくるのが一番と言っていた。
やはりクリエイターはみんなそういう結論に至るのだろうか。
中途半端に「売れそうなものを」と考えていたから台本づくりが捗らなかったのかもしれない。
売れそうなものとか一切考えず、思い切って好きなものに全振りしようと俺は改めて思い直した。
「そういえば編集をどうするかの問題もありますね」
「編集ですか?」
「声優さんからもらった音声データを、ノイズ処理したり、ミステイクをカットしたり、空白を挟んだり、効果音を入れたり……っていう作業のことです。だいたいは自分でしますけど……ミステイクのカットくらいならやったことなくてもすぐできると思いますよ」
「そうなんですか? フリーソフトとかでもいけるんだったら、やってみようかな」
「ノイズ処理も宅録なら声優さんがしてくれる場合もありますが……スタジオ録音ならサウンドエンジニアさんにそこまで頼むこともできますよ」
スタジオ録音かぁ……あ!
「シ、シコファイターさん……」
「どうしました?」
「声優さんのこと、考えてませんでした」
「あら、そうでしたか」
「声優さんって台本書く前から決まってるものですか?」
「うーん、作品によりますね。初めからあの人のあの演技でってイメージして書く時と、後からイメージに合う人を探す時とがあります」
「なるほど……」
「台本づくりが難航しているなら、先に声優さんのサンプルボイスをたくさん聴いてビビッとくる声を探すのもいいかもしれませんね。この声のお姉さんにこういうことされたいとか、インスピレーションが湧く可能性ありますよ」
「確かに。でもそもそも声優さんってどうやって探してますか?」
「買った音声作品に出てる人だったり、SNSで検索したり、あとはSNSで募集してみたりとかですね。まずは他の作品に出てる人の方が演技が想像しやすくていいかもしれません」
「なるほど。わかりました。考えてみます!」
「がんばってください!」
その後俺は今までに買った音声作品のリストを元に、声優さんのホームページを見まくっていた。
ホームページには声優さんが「お姉さん」「ロリ」などいろんなキャラをイメージした短い演技のサンプルボイスが置いてある。
しかしどうも決まらない。
今のところ「エッチなお姉さん」くらいしか決まってないというのもあり、例えば高めの声の明るいお姉さんもいいなと思うし、低い声の妖艶なお姉さんもいいなと思うのだ。
これは……どうしたものか。
困り切った俺は、とりあえずシコファイターさんに連絡した。
「うーん、なかなか声優さんが決まらない、ですか……」
「そうなんです。台本ができてないからっていうのはあると思うんですけど……」
「そこは大きそうですね。あとはまあ、なんだろうな……そうだ、実際に聞いてみます?」
「実際に、ですか?」
「今度次回作のスタジオ録音があるんです。声優さんがスタジオに来て、そこに立ち会って指示を出したりできるんですよ」
「へー! いいんですか? 行ってみたいです!」
実際に声優さんの演技を見れたら、確かに声優さん選びのヒントになるかもしれない。
俺はシコファイターさんに日程を聞くと、その日のスケジュールを空けたのだった。
約束の日、俺は都内の録音スタジオに来ていた。
「すみません! 遅れました!」
電車のトラブルで30分ほど遅れてしまった俺は、謝りながらスタジオに入る。
「あ、馬フィッシュさん。お疲れ様です」
シコファイターさんが出迎えてくれた。
部屋の中はかなりの暑さだった。エアコンはつけていないのだろうか?
「あ、今日の立ち会いの方ですか? 初めまして、レコーディングエンジニアの米田です」
黒いTシャツに黒いズボン、シルバーアクセサリーをたくさんつけた金髪の男性が穏やかな声で挨拶してくれた。
「初めまして、よろしくお願いします」
「いや〜暑い中ご苦労様です。エアコン切っててすみませんね。マイクの性能が良すぎて外のエアコンの音まで拾っちゃうんです」
「そうなんですか!? すごいな」
「このスタジオにあるマイクはKU100と言って、業界でも有名な最高級のマイクなんですよ」
「へえ。最高級っていうといくらくらいなんですか?」
「だいたい100万円くらいですね」
「100万円!?」
マイクってそんなにするのか……いや、これは高い方なんだろうけど。
「お、俺もう黙ってた方がいいですか……?」
「まだ録音は始まってないので大丈夫ですよ」
米田さんは爽やかに笑った。なんだかいい人そうだな。眉毛ないけど……。
「外のバイクの音とかも拾っちゃうので、そういうときは録《と》り直すんです」
「性能が良すぎるってのも大変なんですね」
「その分良い音で録れますから」
「あ、声優さん準備できたみたいです」
シコファイターさんがパソコンのモニターを見て言った。
「声優さんってどこにいるんですか?」
「隣のレコーディングブースです。あー小川さん、準備の方よろしいでしょうか?」
米田さんがマイクに向かって話しかけていた。「OKでーす」と女性の声がスピーカーからした。小川さんというのが声優さんの名前だろう。
「それじゃあ小川さん、本日は改めてよろしくお願いします。キャラ合わせとマイクチェックの方やっていきたいと思いますので、まず台本の1ページ目までお願いします」
「はーいよろしくお願いします」
米田さんの合図で録音が始まり、声優さんが台本を読み上げ始めた。
その瞬間、背筋をゾクゾクとした何かが駆け上がった。
——この声だ。
妖艶なだけではなく、男が反射的に言うことをきいてしまいそうなカリスマ性すら持った声。
気づけば俺は彼女の芝居に引き込まれていた。
「——はい、ありがとうございます。確認しますので少々お待ちください」
米田さんの合図で、ハッと我に返る。それほど彼女の演技に引き込まれてしまっていた。
「シコファイターさん、演技の感じどうですか?」
「バッチリですね。この感じでいきましょう」
米田さんがシコファイターさんと話し合っている。実際に少し演技してみてキャラの感じを確認するのがキャラ合わせということなのだろう。
「わかりました。小川さん、すごくいい感じです。この感じのまま本番もお願いします」
「ありがとうございます。了解です!」
「マイクの位置調整だけしますので少々お待ちください」
そう言って米田さんが席を外した。
米田さんが戻ってくると、ほどなくして本番の録音が始まった。
体感的にはあっという間だった。そのくらい彼女の演技を夢中で聞き入ってしまったのだ。
時計を見ると1時間ほどが経っていた。シコファイターさんがマイク越しにコメントしている。いくつかのセリフだけ録り直すらしい。
俺は声優さんの演技の衝撃に固まっていた。やっと息ができるようになった感じだ。
決めた。
この人に演じてもらいたい。
「それでは本番終了でーす、お疲れ様でしたー」
米田さんの合図があったあと、録音室の扉が開いた。
「お疲れ様でーす!」
元気よく挨拶しながら出てきたのは、ビキニを着た女性だった。
「録音って水着でするものなんですか!?」
「いえ、スタジオで水着になるのは業界でもこの人くらいです」
米田さんが苦笑いしていた。
「だって防音室の中暑いじゃないですか! 水着なら衣擦れもしないし!」
白い肌に水色のビキニが眩しかった。長い茶髪を翻すと、彼女は俺の方を見て目を丸くした。
「え、フィッシュくん!?」
「ん?……あ! 中川さん!?」
彼女の顔には見覚えがあった。
俺の記憶が正しければ、彼女は高校の同級生の中川さんだった。
「あれ、お二人はお知り合いなんですか?」
シコファイターさんに聞かれて、俺たちは頷いた。
「高校の同級生です。まさか声優をやっているとは……」
「フィッシュくんこそなんでスタジオにいるの?」
フィッシュというのは高校時代のニックネームだった。
「実は音声作品をつくろうと思ってて、今いろいろ勉強中でさ」
「へーいいじゃん! 同人サークルデビューだね!」
彼女の人懐っこそうな明るい笑顔は高校時代のままだった。さっきまであんなに妖艶なお姉さん演技をしていた同じ人物とは思えない。
「いや〜すごい偶然ですね〜」
米田さんがエアコンのスイッチを入れながら言った。
「あ、米田さん今日はありがとうございました」
「いえいえ、いつもご利用いただきありがとうございます」
シコファイターさんが米田さんと挨拶していた。収録も終わったし、そろそろ帰るということだろうか。
「シコファイターさん、すごく参考になりました。ありがとうございます」
「それならよかったです」
シコファイターさんは少し米田さんと話していくらしい。中川さんは着替えて私服になってから出てきた。
シコファイターさんと米田さんに別れの挨拶をして外に出る。
「あのさ、このあと時間ある? よければ久しぶりにちょっと話さない?」
俺は思い切って中川さんをお茶に誘った。久しぶりの再会ということもあったし、何より声優としてオファーしたいと思ったからだ。
「いいよ! 話そ話そ!」
彼女は屈託のない笑みで答えてくれた。
二人でカフェに入ると、高校を出てからの話や近況の話、そして音声作品の話へと会話が移っていく。
「ふーん。じゃあ創作自体初めてなんだ」
「そうなんだよね。で、今声優さんを探してるんだけど……今日の演技すごかった。よかったら俺の作品に出てくれない?」
「えーありがと! いいよ。結構音声作品には出てるよあたし」
彼女の声優としての名義は小川むつきというらしい。確かにその名前には見覚えがあった。サンプルボイスも聞いたはずだが、今日の演技の声は聞いたことがなかった。
「あーホームページのやつ結構古いんだよね。あたしも日々進化してるってワケ!」
彼女は得意げに言ってウインクした。このテンションとノリの女の子からあの声が出てたのはやはり信じられないし、高校時代の声からも想像がつかなかった。
「サンプルボイス聞いてもあたしってわかんなかった? そりゃ地声じゃないもん」
「声自体は高校の頃から別に変わってないんだな」
「ちょっと違うかな。いろんな声を出せるようになったって感じ」
「なるほどなぁ。ちなみに依頼するとしたら、料金とかってどんな感じなの?」
「R18なら、ノーマルマイクで1文字4円。バイノーラルマイクで1文字5円でやってるよ」
「バイノーラルマイク?」
「あれ、バイノーラル知らないの?」
「音声作品の説明で見たことあるけど、あんまりちゃんと知らないんだよね」
「バイノーラル録音って言って、ダミーヘッドマイクっていう人の頭の形をした特殊なマイクを使うの。前後左右なんかの位置情報も込みで録音できるんだ。右から左に動いたり、正面から近づいてきたり……上手く使うと臨場感がすごいよ」
「へーそういうことだったんだ」
「今つくってる台本はバイノーラルの予定なの?」
「いや……まだ決まってないんだ。台本自体もできてなくて」
「そうなんだ。例えば20分くらいの音声で4千文字くらいだから、ノーマルマイクなら1万6千円、バイノーラルなら2万円くらいになるよ。スタジオ録音の場合はスタジオ代も1万円以上はかかるかな。宅録だとかかんないけど。まあスケジュールはしばらく空いてるから、いつでも連絡してきて!」
彼女に声優名義での名刺を渡された。メールアドレスやSNSのアカウント名が書いてある。
カフェで彼女と別れると、俺は決意を新たにした。
イラストも、声も揃った。
あとは俺の台本だけだ。
好きなものをつくる。
何より、俺が抜ける作品をつくる。
これだと思う声を聞いたことによって、俺の頭の中ではキャラ像がかなりはっきり浮かんでいた。
このキャラならこういうことを言うだろう、こんなことを言われたい……そんな妄想を膨らませながら、キャラを活かせそうなシチュエーションを考える。
シチュエーション。キャラクター。表現は、とにかく俺に響くセリフを考える。
そうやって書いたセリフを、頭の中で小川むつきの声で再生する。
あのお姉さんボイスに……責められてぇ!
今更ながら、俺は思ったよりMなことに音声作品によって気付かされていたのだった。
その夜、俺は夢中になって台本を書いた。
「……で、できた」
俺はパソコンの前からふらふらと立ち上がると、窓の前に立った。
カーテンをめくる。途端に朝日が部屋の中に射し込んできて、俺は目を細めた。
台本が、完成した。
いつもより朝日が眩しく見えた。
俺の初めての音声作品は……「普段は厳しい女上司が家に帰ると大好きな彼氏(俺)を甘やかし乳首責め手コキで可愛がって今日も鳴かせてくるボイス」で行く。
翌日、完成した原稿をシコファイターさんに見てもらった。
「ど、どうでしょうか」
「……いいじゃないですか! エロいですよ!」
「ありがとうございます!」
俺は思わずガッツポーズをしていた。
「初めてでこれだけ書けたら十分ですよ。すごい成長ですね」
「いやあ、シコファイターさんやいろんな人のおかげです。本当にありがとうございます!」
「いえ、いいんですよ。僕も若い才能が出てくるのはうれしいですから」
俺は喜びを噛み締めていた。
ついに俺の音声作品づくりが一歩先に進むんだ。
「そういえばト書きがないですけど、あえてですか?」
「ト書き? ってなんですか?」
「ああ、単純に知らなかっただけでしたか。ト書きというのは、台本に横の列や括弧で書く演技指示などの文章のことです。キャラの状況を説明したり、間を5秒空けるとかの指示を出したり、あとバイノーラルならマイクの位置や向きを指定したりもしますね。声優さんに向けての注意書きって感じです」
「へーそういうのがあるんですか。何も考えてなかったです……」
「いえ、馬フィッシュさんのこの台本だと……収録はバイノーラルを予定していますか?」
「そこはちょっと悩んでます。バイノーラルだと動きを表現できるんですよね?」
「そうです。バイノーラルを活かすには、ヒロインに動きがあることでリアルになる作品とか、複数ヒロインで両耳交互や同時に……なんてのがありますね」
「なるほど……台本は何か変わるんでしょうか?」
「ト書きが少し大変になります。右、左、くらいの指示の場合もありますし、床に時計の文字盤みたいに番号を振って“1番から3番に移動しながら”なんて指示もあります。するとこっちに近づいてきた感じとかが出るんですね」
「はーそんなことまでできるんですね」
「馬フィッシュさんは今回動きとか意識して書いてないでしょうし、バイノーラルじゃなくてもいいかもしれませんね」
「そんな感じがしてきました。今回は通常録音でもいいかなって思います」
「そうですね。あとはSEをどうするかですね。シコシコの水音や、ドアが閉まる音、衣擦れの音のような効果音です」
「効果音! 確かに入ってる音声作品ありますよね。自分では全然気にしてなかったです」
「今回の馬フィッシュさんの作品は……手コキの水音くらいだと思います。効果音は編集でセリフの後ろに流すんですが、上手く入ると臨場感が出ますね。ただ音量バランスとか音質によっては没入感を損なうと感じる人もいるので難しいです。最終的にはあった方がエロいと思うかどうか、編集の手間をどう思うか、で決めていいと思いますよ」
「なるほど……勉強になります!」
とりあえずバイノーラルじゃなくても良さそうだから、ト書きにそんなに追加することはなさそうだ。
SEは少し迷ったが、水音の音量バランスで気が散った作品があったことも思い出し、今回はなしにすることにした。
台本が完成したら……次は声優さんへの依頼だ。あとイラストレーターさんにも作品の細かいシチュエーションが決まったことを伝えよう。
台本が完成した高揚感、初めて何かを自分の手でつくり上げた達成感に、俺は口笛を吹きながらメールを書き始めたのだった。
翌日、台本が完成したのがうれしくて、俺は何度も自分の台本を読み返していた。
読み返すうちにより良いセリフが思いついたりして、細かいところを変えたりした。
朝子さん曰く、この作業を推敲と言うらしい。時間をかければもっと良い表現が思いつくかもしれないと考えると、やめどきがわからないのが難しいところだ。
推敲を繰り返すうちに、俺の胸中にはある不安が湧き上がっていた。
俺の台本と似たような作品で、より優れた作品が世の中にはあるんじゃないか……そもそもつくる意味あるのか? という不安だ。
自分の作品は、確かにエロいと思う。何せ自分の好きなものが詰まっているのだ。
しかし上位互換のような作品がすでに世の中にはあるんじゃないか……と考えてしまうと、初心者の俺がわざわざ作品を世に出す意味とは……と少し考え込んでしまった。
「それは創作にはつきものの悩みね」
埒《らち》が明かないので、朝子さんに相談してみた。
「最終的には、似たようなものが他にあっても、つくりたいと思ってしまったからつくる……そういう落とし所で私はやっているわ」
「つくりたいと思ってしまったから、つくる……」
「そう。それに似たような作品同士でも、単純に優劣がつくものではないのよ。例えばJKに足コキされる作品と、高校1年生の後輩JKに足コキされる作品があったとするでしょう」
「後輩かどうか、ですか?」
「違いはそこね。この場合、後輩性癖がある人は後者の方が刺さるけれど、先輩にリードされたいと思ってる人には前者の方がいいわよね。先輩後輩の違いは大きなものだけれど、もっと細かい違いでも、刺さる人もいれば刺さらない人もいる。シチュエーションが細かければいいというものでもないし、大雑把でも光る物はあるかもしれない。自分の作品をより良くするために他の作品を見て学ぶのは大事よ。でも比べてしまって自分が身動き取れなくなるのは避けたいわね」
「うーんなるほど……」
「ま、ありきたりなやつをやる時は“俺によるカバーは世界初だぜ”くらいに思っておきなさい。つくりたいからつくる、これを忘れると楽しい部分が減っちゃうわよ」
つくりたいからつくった……確かにそうだ。
俺はとにかくこのまま一旦発売してみよう、作品として世の中に出してみようと気持ちを新たにした。
翌日、俺の家に警察が来た。
「確認しますが、あの日スタジオに居たのは間違いありませんね?」
「はい……」
突然来た警察官の話では、あの日スタジオ録音に行った人に話を聞いているということだった。
スタジオにあった高級マイク、KU100が盗まれたらしいのだ。
俺たちがスタジオ録音の立ち会いに行った翌日、米田さんが気づいたらしい。
つまり盗まれたのは、俺たちがスタジオ録音に行ったあと。
あの日スタジオに来ていたのは米田さんとシコファイターさん、小川むつき、俺の4人だけだそうだ。だからこの4人に順番に話を聞いているということらしい。
「滞在時間はどのくらいでしたか?」
「声優さんの録音が1時間くらいだったので、1時間くらいだと思います」
「なるほど。そのあとはどこで何をしていましたか?」
「声優さんとカフェに行って少し話したあと、家に帰ってパソコンで作業していました」
警察に当日のことを話すが、正直まったく心当たりがない。怪しい人物も見ていないし、マイクを盗むような人がこの4人の中に居るとも思えないのだ。
「ご協力ありがとうございました。また何か進展しましたら連絡します」
警察はしばらく話を聞いたあと、帰っていった。
100万円もする高級マイクを盗まれた米田さんの被害は大きい。それに俺とむつきにとっても、スタジオ録音をしようと考えていたのができなくなってしまった。
「うーん……他のスタジオを使うか、宅録に切り替えるかだよね」
むつきに電話すると、やはり警察に話を聞かれたとのことだった。
「いつ頃発売したいとかってもう決まってたの?」
「いや、特には。でもマイクが帰ってくるまで待つのは現実的じゃないし、他のスタジオを使うか宅録にするか……かな、やっぱ」
「うちにあるマイクだとさすがにKU100よりは音質が落ちるけど……そうも言ってられないよね。一応使ったことある他のスタジオもリストアップしとくね」
「助かるよ。決めたらまた連絡する」
通話を切ると、画面にメッセージが来ていた。
“今晩うちで宅飲みしませんか?”
シコファイターさんからだった。彼もこの事件について話したいのかもしれない。俺も話したい気分だったので、今晩彼の家に行くことにした。
「お疲れ様ですーどうぞどうぞ」
「お邪魔します」
一人暮らしをする彼のアパートには、何度か遊びに行ったことがあった。
部屋に上がると、二人で酒を飲みながら話し始める。
「いやあ、まさか身近に警察沙汰が起きるなんてって感じですよね」
「そうですね……」
シコファイターさんはあのスタジオにはよくお世話になっていたらしい。米田さんの気持ちを考えると言葉が出ないのだろう。
「馬フィッシュさん、制作の進捗はどんな感じですか?」
「やっぱり録音で一旦止まってますね。あのスタジオで録音しようと思ってたんで」
「そうですか。馬フィッシュさんにも迷惑かけちゃってますね」
「そうですねー。犯人が何目的で盗んだのかわかりませんが……」
なにせ100万円もする高級マイクだ。単純に金目的かもしれないし、もしかしたらマイク自体が欲しかった可能性もある。
「ところで馬フィッシュさん、最近いいものを手に入れたんですよ。ちょっと見てもらえませんか?」
「いいものですか? なんだろう」
シコファイターさんは立ち上がると、隣の部屋のふすまを開けた。
そこにあったのは、人の上半身を模した模型のようなもの。
——ダミーヘッドマイクだった。
「——え? シコファイターさん、これって」
「KU100です」
「……か、買ったんですか? いやー思い切りましたね!」
まさに話に出ていた、盗まれたマイクと同じもの。
手のひらに汗が噴き出したのがわかった。視線がマイクとシコファイターさんを交互に行き来する。
「……馬フィッシュさん。過去の栄光が忘れられなかったことはありますか?」
「え? いや、あんまり栄光ってほどのことは人生なかったので……」
「そうですか。僕はあります。音声作品をつくり始めた頃は、出す作品出す作品全部がすごくよく売れていました。ところが最近は、なかなか思うように売れなくなってしまった。何が悪いのか、どうすれば売れるのか、何度も考えて作品を出し続けましたが……やっぱり売れなかった」
「そ、それで音質を上げようとマイクを買ったんですか?」
「いえ、馬フィッシュさん。売れてないのにそんなお金はありません」
「……そんな」
俺が認めたくなかった言葉を、彼自身が口にした。
「マイクを盗んだのは僕です。馬フィッシュさん」
「……どうして、なんですか?」
彼はマイクの方を向いていた。その表情はこちらからは見えなかった。
「馬フィッシュさん。音声作品業界も、君みたいな若い才能がどんどん出てきてます。このままでは簡単に追い抜かれてしまう……そんな焦りも浮かびましてね。KU100という力があれば、作品の質が上がってまた売れるようになるかもしれないんです」
「シコファイターさん……」
彼の売上がすごかったというのは確かに聞いていた。
それでも、売りたいのかつくりたいのか、と聞いてきたのはシコファイターさんじゃないか。
「……作品の質っていうのは、音質なんですか?」
俺は言葉を絞り出していた。
「……」
「音質が良ければエロいのかよ!? 違うだろ! シコファイターさんにしか書けないエロいシチュがあったはずだ! 売るためじゃなく、つくりたいからつくるのが同人だって教えてくれたじゃないですか」
「馬フィッシュさん。僕だって最初はそうでした。でも一度バカ売れしたら、その味を忘れられなくなってしまった。好きなものをつくろうと思っていたのに、どうしても売れたくて、だんだん自分が好きなものもわからなくなっていってしまった。売れてしまったら、君もそうなるかもしれないんです。馬フィッシュさん、せめて君にはそうはならないで欲しい」
どうしていいかわからず、俺はただ拳を握り締めていた。
「……どうして俺に盗んだことを打ち明けたんですか? 高級マイクという力を使えばどうにかなる、それが嘘だって自分でもわかってたんじゃないですか?」
「……そうだね。こんなことをしても仕方ないと、どこかでわかっていた」
彼はKU100の頭を撫でると、独り言のように呟いた。
「この焦りやどうしようもない気持ちを誰かに聞いてもらって……もう一度頑張れって言って欲しかったのかもしれない」
「……シコファイターさんならそうやって言ってもらう音声作品をつくるって手もあったんじゃないですか?」
「はは、そうだね。そうすればよかったな」
彼は静かに笑った。
「お姉ちゃんに頑張れって言ってもらえる音声、次はつくりましょうよ」
「そうするよ。発売したらよかったら買ってくれるとうれしいな」
「もちろん買います。勉強させてください。俺も音声作品づくり、続けますから」
何かを諦めたかのような彼の目が、忘れられない光景として俺の心に残り続けた。
その後シコファイターさんは警察に自首した。
いざ盗んでみたら、こんなことをしても意味がないという後悔が強かったのだという。
身近な人、それもクリエイターとして尊敬していた人がこんなことになってしまったのはショックだったが、一応事件は解決した。
KU100は無事スタジオに返却され、俺とむつきはスタジオ録音に向かうことにした。
「米田さん、今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
米田さんは相変わらず穏やかな表情だったが、どこか悲しそうな目をしていた。
「……シコファイターさんの件、ショックでしたね」
「そうですね……」
シコファイターさんは何度もこのスタジオを利用していたようだ。常連のクリエイターがこんなことになってしまったのは、米田さんにとってもショックだったらしい。
「最近は同人音声もかなり間口が広くなって、参入者が増えてます。スタジオ利用されるサークルさんで、かなり売れてるサークルさんとかも来ますけど、やっぱり何がどうして売れるかさっぱりわからないっていうのは聞きますね」
「そういうものですか」
「ですです。リスナーさんにとってもバイノーラルマイクといえばKU100っていうぐらいの認識で広まってる節はありますし、とにかく売れるにはまずKU100、っていうのもわからなくはないんですよ」
確かに音声作品を買っていても、タイトルやキャプションに「KU100」の文字がわざわざ書いてある作品は結構ある。
音質が良いことの目印みたいに機能している面はあるだろう。
「結局僕たちエンジニアは、どんなサークルさんが来ても最高の音で撮ろうとしますから。マイクで音質が変わるのは確かにありますが、どのサークルさんでもできる限り最高の音にするので、売れるかどうかは結局作品の中身次第なのかなって個人的には思います」
音声作品を買っていると、例えば10年近く前に発売された作品を目にすることもある。そういう作品はやはり最近の作品に比べて音質は悪いが、シチュエーションや言葉責めの表現が良くて全然抜けたりするものなのだ。
米田さんの言う通り、どの作品もできる限りの音質でやっている。マイクが良ければ売れるだろうというのが悲しい勘違いであることは、きっとシコファイターさんも薄々わかっていたとは思う。
「お疲れ様でーす! 今日はよろしくお願いします!」
スタジオにむつきがやってきた。相変わらず元気だ。
「お疲れ様。今日はよろしくな」
「むつきさん、お疲れ様です。よろしくお願いします」
彼女はいそいそとその場で服を脱ぎ始めた。
「何やってんの!?」
「中に水着着てるから大丈夫だよ!」
「この人いつもこうなので……」
米田さんは目線を逸らしていた。
「それじゃあレコーディングブース入りますね!」
「はい、お願いします」
一度録音が始まってしまえば、もうそこからはむつきの独壇場だった。
俺の想像の上を行く演技で、台本に声という命が吹き込まれていく。
台本を書いていたときの脳内再生を軽く越えてくる演技に、一瞬で引き込まれた。
そう、このお姉さんはそういうトーンで誘惑するんだよ……そこをそう読むのか! その解釈も良い……!
「——はい、ありがとうございました。一旦確認するのでお待ちください」
一通り読み終わると、米田さんの合図で録音が中断される。
「馬フィッシュさん、どうですか? どこか演技の感じとかで気になるところなどあれば」
「いや、もう……キャラの性格なんかも汲んでくれて、素晴らしい演技です。自分の脳内再生を軽く超えてきたなって感じです」
「それはよかったです。確かに良い演技でしたね。もう少し違う演技で聞いてみたい箇所なんかはないですか?」
「そうですね……この箇所だけ、もうちょい甘える感じが出てくれるといいなと思うんですけど」
「わかりました。小川さん、全体的にイメージ通りでとってもいい感じだそうです。2ページ目の10行目だけ、もう少し甘える感じを出したバージョンも聞いてみたいので、そこだけ読み直していただけますか?」
「了解でーす」
いつものむつきの朗らかな声がスピーカーから返ってくる。さっきまで妖艶で男を引きずり込むような声を出していたのと同じ人物とは思えない。声優ってすごいんだなと改めて思う。
「それではリテイク1箇所お願いしまーす」
こうしてむつきの名演により音声収録は終了したのだった。
「それでは馬フィッシュさん、編集は予定通りこちらで行いますので」
「はい、よろしくお願いします」
今回は編集を米田さんにお願いすることにしていた。
噛んだ箇所などのNGカットくらいなら自分でやってみようかとも思ったが、ノイズ除去や整音——音量を上げたり、耳に痛い周波数を削ったり、音質を調整する作業らしい——に専門的な知識が要りそうなのでお任せすることにしたのだった。
「完成したデータは2、3日で送りますのでよろしくお願いします」
「わかりました。こちらこそお願いします」
レコーディングブースから出てきたむつきが顔を扇ぎながら部屋に入ってきた。
「あっつー! お疲れ様でーす!」
「小川さん、お疲れ様です」
「お疲れ様。すごかったよ」
俺は彼女の演技力に素直に感動していた。
「ほんと? ありがと! やっぱ時間かけてライターさんやイラストレーターさんがつくってきたものの最後を任されるのが声優だからね! 気合い入れて演《や》ってるよ!」
台本の出来ももちろんあるが、それと並ぶ大事な要素が声優さんの演技だ。
リスナーを夢中にさせ、別の世界に引き込むような力を持った演技を自分の作品に充ててもらえたことに、俺は感謝していた。
もうここまで来たら、あとは発売するだけだ。
しばらくしてやぎこさんから表紙のイラストが納品された。
キャラデザも構図もお任せだったが、活き活きとしたお姉さんキャラがそこには息づいていた。
このキャラが、あの声で……。
俺一人では決して生み出せない、色んな人の力が合わさった作品がそこにはあった。
台本が完成したときもうれしかったけど、他のクリエイターさんの力で自分の作品が数段階引き上げられるような体験はすごくうれしいものだった。
俺はダウンロードサイトに作品データを登録した。
そしてついに、俺の初めての音声作品が発売したのだった。
「発売おめでとー!」
「ありがとう!」
後日、俺たちは作品発売記念の打ち上げをしていた。
レストランに集まったのは、俺、むつき、朝子さんの3人だった。
「発売おめでとう。よく投げ出さずに発売までこぎつけたわね」
意外にも、打ち上げをしようと誘ってくれたのは朝子さんだった。
「ありがとうございます。朝子さんが色々教えてくれたおかげです」
「そうでもないわ。結局最後は自分が書かなければ1文字も作品は出来上がらないもの。あなたが頑張ったのは事実よ」
「そうだよフィッシュくん! エッチでなかなか良い台本だったよー演ってて楽しかった!」
「なんかすげーうれしいです。俺こうやって何かを誰かとつくり上げたことって今までなくて」
それはなんとも言えない晴れ晴れとした達成感だった。
気になって何度もチェックしてしまう売上は、まだ販売初日というのもあってたったの数本だ。
しかしその数本の後ろには、買ってくれた人が何人か居る。俺の作品を良いなと思ってくれた人が居る。
その事実はかつてない認められた感覚を俺に与えていた。
こうして手に入れた数百円は、言われたことをただこなして仕事で給料をもらうのとは全然違う、本当に自分の力で手に入れた尊いお金に感じた。
「……できればシコファイターさんも一緒にしたかったですね」
俺の口からついて出た言葉に、二人はしばし沈黙した。
「……仕方ないわ。私たち創作者だって売れたいという気持ちはある。誰にだってああなる可能性はあると思う」
朝子さんの言葉は、どこか自分に向けて言っているようにも聞こえた。
クリエイターを長くやるというのはとても大変なことなのかもしれない。気持ちの面で。
「今はひとまず、無事完成して発売できたことを祝いましょう。次回作の打ち上げには彼も呼べばいいわ」
「そうですね。いやー次回作かぁ。まだ全然考えてないです」
「そう。つくる気になったらつくればいいわ。同人なんだから」
ふと気になって、俺は朝子さんに質問した。
「朝子さんはどうして創作をしてるんですか?」
彼女はアイスティーを口に含むと、ゆっくりと飲み下した。
「——せずにはいられないからよ」
彼女の赤い瞳がどこか遠くを見た。
「思いついたら書かずにはいられない。それだけ。どうしても書いてしまうのよ。書きたいという衝動に素直に生きているだけ」
朝子さんらしい答えだと思った。
「ま、あなたと同じようなものよ。つくりたいと思ったから、つくる……理由なんてそれだけで十分じゃないかしら」
「そうですね。そうだと思います」
「私も! 私も演じたいから演じてる!」
むつきが手を挙げて言った。
何かをつくりたいという気持ちは、誰にでも眠っているのかもしれない。今まで創作なんかやったことなかった俺ですら、こうして衝動に突き動かされて何かを生み出したのだ。
「あとは……何かをつくり上げたときの喜びも、悪くないわよね」
「ですね!」
つくっているときはなかなか進まず苦しい思いもしたけれど、できたときの達成感は大きい。
俺たちはどういう作品が好きだとか、今度はこういうものをつくってみたいだとかの話で盛り上がりながら、完成の喜びに浸ったのだった。
数日後、俺の元に一通のメールが届いた。
“馬フィッシュさんの作品を聞いて、なんてエロいものがこの世にはあるんだろうと思いました。創作なんてしたことのない自分ですが、自分も音声作品をつくってみたい! と思って今動いています!”
俺は朝子さんの言葉を思い出した。
“触れたあとに自分も何かをつくりたくなるというのは、本当に良いものに触れた証拠よ”
俺の作品を聞いて、誰かが何かをつくりたいと思ってくれた。
俺にもそんな作品がつくれたんだ。
それでも——もっとこうしたら良かったとか、こういうシチュエーションもどうだろうとか、作品が完成してから思いつくことがたくさんあった。
次回作はどうしようかなといつの間にか考えていた自分に気づき、俺は笑ったのだった。
皆さん、最近オナニー充実してますか?
終
・馬フィッシュ
20代半ばの駆け出し音声作品ライターの青年。乳首責め音声作品をつくりたい。
馬フィッシュの由来は高校のころ魚が丸ごと弁当に入っていてついたあだ名「フィッシュ」に「馬ってなんかカッコいいよな」と思って馬を足した。
・シコファイター
先輩同人音声作品ライターの男性。本業はシステムエンジニア。
馬フィッシュとは同じオンラインゲームをやっていて知り合った。
30代後半。
・夏目朝子
同人小説家、コスプレイヤーの女性。
20代後半。面白いことが好き。
気まぐれに見えるが、自分の中では毎回理屈があるらしい。
・みるきぃ☆デスドラゴン
同人小説家の男性。熱い男。20代半ば。
体格が良く、身長も高い。握力62kg。
魂でシコるタイプ。
・やぎこ
同人漫画家の女性。商業誌にも載ったことがあるエロ漫画家。
20代後半。
最近なんだかんだキスが一番エロい気がしてきて、キスだけのエロ漫画を描こうか真剣に悩んでいる。
・小川むつき
同人声優の女性。実はオホ声が得意。
馬フィッシュの高校の同級生。20代半ば。
常にテンションが高く、仕事に全力。
・米田のぶひさ
レコーディングエンジニアの男性。20代後半。
見た目がビジュアル系。
眉毛がほとんどないのでちょっと怖いが、すごく礼儀正しくて優しい喋り方をする。
いただいたサポートでえっちな作品を購入し、私の小説をよりえっちにします。