こだわりがあるって、素敵だ。”不要不急”を考えてみた結果、思ったこと
「不要不急の外出は控えましょう」
2020年、繰り返し聞いた言葉。コロナ禍以前も”不要”と”不急”という言葉を知っていたけれど、日常でよく使っていたわけではなかったから、意味を意識したことはそんなになかったと思う。
それが、ほぼ毎日耳にするようになってしまったので、去年は”フヨウフキュウ”の音が、私の頭の中でこだまのように響き渡っていた。
ちょっと大げさな言い方だったかもしれないが、今まで日常で使っていなかった言葉が急に出てきて、頭の中をぐるぐる駆け回っている感じだ。
ある日ふと、私は「フヨウフキュウって何だ?」と意味を調べだした。
文字通りの意味であろう”不要”と”不急”それぞれを、あえてググってみる。そして、私にとっての「必要なこと」と「急ぎなもの」を考えてみた。
まずは”不要”
必要でないことってなんだろう。
生きていくためにはこのnoteを書くことも必要でないことだろう。
でも、私にとっては、”人間らしく”生きていくために必要なことだ。書きながら価値観や自分の意見を構築している私は、「書くこと」が「呼吸」並みに重要なことだと思っている。
あと、必要でないものといえば「お酒」だ。私は宅飲みができない。ひとりで飲むお酒にまるで興味がないので、1缶の缶ビールでさえ、家で飲むと一日で飲み干せないこともある。
そんな私でも、2時間の飲み会で誰かと一緒に飲む生ビールは好きで、ジョッキを2杯、3杯と軽々注文してしまえる。だけど、それは不要だったお酒が必要になったからではない。
単純に誰かと一緒にお酒を飲んで話をするのが好きで、「必要」「不要」とかじゃなくて、ただただ、飲みたくなるのだ。(そこまで酒豪ではありませんが、ちょっとしたのんべえだと思います笑。)
人から見れば不要なものも、ある人にとっては必要なことだったりするし、「必要」か「不要」かの取捨選択だけで生きているわけでもない。
必要でなくても「好きだな」と思ったら勝手に手を伸ばしていることは多々あって、必要でないものが人生を成り立たせていることもある。
そうなると、必要でないものも「結局必要だったんじゃない?」とも思えてきて、堂々巡りの考えに陥っていく。
次に”不急”について考えてみる。
今すぐしなくてもよいことを省いたら、一日に何が残るだろう?
会社の仕事は生活費のために必要だ。でも、その日のうちにやらないといけない至急の仕事がなければ有給を取ることだってできる。仕事を休んだとして、やらないといけないことは、ゴミ出しだったり、食事だったり、家事だったりする。
ただ、食事も一日食べなかったとしても案外しのげる。もちろん食べない日が続くのは身体に良くないけれど、3日間のファスティングを経験してみて、指導を受けながらであれば、食べなくても身体は意外と大丈夫なんだ、ということを体感した。
家事も一日サボったところで、一人暮らしだと「明日やればいいか」となる。
お気楽なヤツだと思われそうだけど、「急を要しない」ことを生活の中から除いたら、やることがなくなってしまった。
ちょっと別の視点で”急用”を考えてみよう。
それども、やっぱり”急用”が何の用なのかわからなくなる。
人生には終わりがある。”いつか”必ずやりたいと思っていることは、誰でも何個かは持っているだろう。今は急ぎではなかったとしても、終わりを意識しだすと、今すぐやっておいた方がいいと思えてくるものはないだろうか?
たとえば、海外旅行。先延ばしにしていたら、コロナがやってきて海外に行きにくくなってしまった。
私の生活は”不要不急”なことで溢れている。
不要不急を除いた生活をするならば本当に何も残らないな、と思った。結局のところ、私という人間は”不要不急”で出来上がっているようだ。
・・・と、ここまでつらつらと書いていたのは、暮らしに必要なコト・モノについて向き合う時間が増えたからだろう。
コロナ禍で不要不急の外出が制限され、出ずっぱりだった私も出かける機会が減ってしまった。それでも、外出が制限されることに対して、どうこう思うというよりは、今やっているコトや、身の回りのモノに意識を向けて考えを巡らせている。
たとえば、”服”もそうだ。
私のクローゼットには買った瞬間は心を満たして、その後は役目を与えられないままの服が眠っている。いわゆる衝動買いの類のモノだ。
今はコロナでテレワークになったことをきっかけに、毎日最低10分は部屋の片付けをしている生活なので、モノがあることがわかり、衝動買いはしなくなった。
あと、もともと物欲がない方なので、ここで言っている「衝動買い」とは買い物をしようと決めてお店に行ったときの衝動買いのことを指している。
たとえば、服を買おうと決めて服屋さんに行って、あまりよく考えずにパッとみていいなと思った服を買うというのが私の買い物スタイルだった。
友人と一緒に買い物に行くと、よく決断が早いと言われた。即決で買うことは、良いこともあるけど、「何でこれを買ったんだろう?」と今ではもう思い出せないという事態も起こり得る。
エシカルファッションといった、人や社会・環境に配慮した消費活動は世界で大きな取り組みがあって、ニュースでもよく目にするが、私は日常に落とし込められていない。
どこか遠い世界のことのように思ってしまう自分がいる。
恵まれていて、贅沢なんだと思う。ここまで書いてようやく、平和ボケしていている自分が恥ずかしくなってきた。
そんな私が「世界での取り組みを自分ごとにするためには、誰かの何かのためではなく、自分のためにお気に入りの一着を持つことかもしれない。」と思えたのは、
着物を仕立てる合同会社巧流様(以下巧流-call-様)のインタビューをさせていただいたときからだ。
巧流-call-様のホームページにはこんな文章が綴られている。
代表の元山巧大さん、元山誠也さんに「着物がなぜ、”優しい衣装”なのか?」や”服”の語源についてなど、いろんなお話を伺った。
インタビューでお話を聞いたり、記事を書き進めていくうちに、「服装にこだわりをもって着飾ることは、自分の心を満たすだけではない。社会とつながり、『自分以外の誰かや何かに優しくなれる』一つの手段になるかもしれない」と思えてきた。
このことはきっと、考える余地がたくさんある。それでも私の気持ちを表すにはこの一言に尽きる。
「こだわりがあるって、素敵だな。」
言葉にすると単純だけど、今の私にはこの言葉がしっくりくる。ちゃんと自分のこだわりを持って物事を選べる人でありたいと素直にそう思った。
そういえば、私は子どもの頃からちゃんとこだわりは持っていたことを思い出した。親に選んでもらった服よりも、自分が着たい服を着たかった。
不要不急の言葉に考えを色々と巡らせていたけれど、ほんとうに大切にしたいものはずっと前からわかっていたのだ。
誰かにとってはそうではなくても、私にとっては心が弾むものや、心地よいものを大切にし、自分のこだわりとしていた。
今度は言葉や頭を使って考えるのではなく、心にたずねてみよう。
湧き立つような楽しい感覚を思い出しながら、もう一度、巧流-call-様のインタビュー記事を読んでみよう。
”
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