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【なんで生きるんだろう?】

小2から、ずっと死にたいと思っていた。
毎日自分に「死ね。」と暗示をかけてもどうにもならんし、
誰も自分のことなんぞ殺してくれないことに気が付いて、
それはそれで絶望したりした。

そんな希死念慮プロ(?)の私は小4くらいから、
なんで「生きてるんだろう?」と素朴な疑問を抱き続けたけど、
誰にもその疑問をぶつけることなく高校生になってしまった。
しかし、大学3年になって、ようやっとそれっぽい答えを見つけたから、
その答えをここに書き記しておきたい。

① 大学2年「生きてることに意味は無い」

大学2年くらいの時が、一番鬱がひどくて、
実際自殺未遂まで決行したけど、友達に止められて死ねなかった。
そのちょっと後に、エミール・M・シオランというめちゃくちゃ
ネガティブかつ、ずっと死にたいと思い続けて80歳くらいまで
生きちゃったおじいさんの言葉を紹介してるサイトに出会う。

そこで、彼が言ってたのは、
「生きてることに意味なんかない。
他の動物をみてみろよ、人間だけが生きる意味なんか
求めようとするから苦しくなるんだ。」

的なことだった。

めちゃくちゃ納得して、ああ、なるほど、
人間に生きる意味なんて無くて、
ただこれまでの動物としての生殖活動の結果、
子孫繁栄をするようにプログラムされているヒトとしての結果、
私が生まれてきたんだなあ。と。
生まれてきても、特段の使命なんてものは無くて、
ただ、そこに「居る」だけ。
「生きる意味」を求める方がバカなんだと知った。

② 大学3年「生きてることに意味はない。けれど、自分でその理由は決めることが出来る。その自由はある。」

最近になって、脳科学者の中野信子さんの記事で
「なぜ生きるのかという問いに対する答えはない。
だけど、答えがないということは、
特段の宗教的・文化的な縛りが無い限りは、自分でなんで生きてるのか
その理由付けを自由にやっていいということ。」

と書いてあった。

生きてることに意味なんかないし、
残念なことに、現状なんで生きていくのか
自分で理由付けもできないけど、
それでも自分で生きていく理由を決定する自由はあるんだなあと。
なんで生きるのか。好き勝手に解釈してもいい自由があると思ったら、
なんだかちょっとホッとしたし、
まあ、今日も午後まで生きるか。という気持ちになった。
(上から目線過ぎる。)

そして、中野さんのお言葉から
もう一つ考えたことがあって、
まだ、自分には「知る自由」が保障されていることが良かったなあと。

ちょっと自分の過去の話をすると、
自分の両親は料理が上手かったり、手先が器用だったり、
自分を学校に通わせてくれたりと
尊敬できる部分はあるものの、
残念なことに、子供を育てることは得意じゃなかった。

自分の子供を否定したり、自分の意見を通すのが得意で、
一生、自分の子供は自分よりバカだと思い続けて、
一生、自分らの言うことだけ信じて待っていればいいと思っている。
そんな両親に育てられたからか、私はものの見事に鬱病患者になった。
(両親のせいだけにするわけじゃないですが、
鬱病の原因は、割と二人にあると未だに思ってる。)

それでも両親の考えにどっぷり染まることもなく、
なんかこの両親の言ってることおかしいぞ。とか、
本当か?と疑いの目を持って生きてきて、
やっぱり二人が間違っていたと気が付く機会が大人になるにつれて増えた。

唯一、大人になってよかったことは、
様々なことを知る機会がどんどん増えることだ。
どんなに生みの親が頭がおかしくても、
どこぞの他人様を自分で勝手に「育ての親」として
その人の考えを取り入れて、生きていくことはできる。
最近でいえば、頭の中で勝手に、中野さんを「育ての親」にして、
自分のパースペクティブを再構築できる。
(中野さん勝手なことしてごめんなさい。)

もう一度言う、
生みの親の頭がおかしくても、
この世の中にいるいろんな素敵な大人を
勝手に自分の育ての親にすることはできる。
その自由はある。

それだけには感謝して今日の午後も生きたいと思う。




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