見出し画像

黒の衝撃による現代ファッションに与えた影響

こんにちは、sayakaです。

今回は「黒の衝撃による現代ファッションに与えた影響」について述べていこうと思います。

毎月更新していたブログですがインターンなどの諸事情で更新が遅れまして申し訳ありません。

前回のブログと関連した記事ですのでぜひまだ拝読されてない方はこちらからご覧ください。

前回のブログでは長年日本人が持つ美意識、侘び寂びと陰翳礼讃を個人的な視点から分析し、私のファッションにも多大な影響を与えていることについて述べさせていただきました。

今回はその侘び寂び、陰翳礼讃の話をするのに必要不可欠な川久保玲・山本耀司「黒の衝撃」が現代ファッションに与えた影響力についてお話ししていこうと思います。

前回のブログでも述べましたが、二人はヨーロッパの人々が「みすぼらしさで不完全」と考えるものを「日本人が考える美しさ」として海外に発信したのが俗に言われる「黒の衝撃」です。

これから黒の衝撃について説明していこうと思います。

山本と川久保はともに1981年にパリコレクションでデビュー。彼らの作る洋服は、構造、シルエット、生地の組み合わせから見ても明らかに非西洋的で、色彩はダーク、ボロのように穴の空いた加工、アシンメトリーなデザイン“黒の衝撃”“東からの衝撃”と言われ、その後、黒を全面に打ち出すファッションは世界的に流行することとなる(日本では「カラス族」などと表現された)。

BEST TIMES

1960年台半ばからオートクチュールからプレタポルテコレクションが主流になり、70年台からKENZO、ISSEY MIYAKEがパリにも進出していき、日本人デザイナーの頭角が現れていた頃。当時はボディコンシャスなファッションが流行していました。

1981年にパリコレデビューしたコムデギャルソンの川久保玲とヨウジヤマモトの山本耀司は当時タブーで禁欲的とされていた「黒」を基調とし、体のラインを隠すようなダボっとしたシルエット、穴が空いたりアシンメトリーな通称「ボロルック」でパリに衝撃を与えました。
※デビューは1981年だが、ショーに注目が集まったのは1982年10月(83SS)のショー。

当時のルックの写真。

画像1
comme des garcons
画像2
左:川久保玲(コム デ ギャルソン) 1983年秋冬 京都服飾文化研究財団所蔵、株式会社コム デ ギャルソン寄贈、林雅之撮影 右:山本耀司 1983年春夏 京都服飾文化研究財団所蔵、小山壽美代氏寄贈、広川泰士撮影

その前にココ・シャネルが活躍していた1920年台にも「黒」をファッションに持ち込む取り組みをしていました。
その代名詞でもあるのが「little black dress」(LBD)

画像3
ココシャネルが着用するLBD

この頃から黒≠喪服という考え方を少しずつ広めていきました。

ただシャネルのLBDとは違い、ぼろぼろの山本と川久保のルックはあまりの衝撃に「原爆ルック」と呼ばれたほど。

「背筋がさむくなる」「爆弾に当たってきれぎれになったような世も末の服」「まるで核戦争で生き残った人の服のよう」
などどメディアに批評が取り上げられるほどでした。

またその当時は、日本とヨーロッパ・アメリカの間で深刻な貿易摩擦が発生していました。日本製の自動車や家電製品などの輸出が進み、売上が伸びていた時代。性能が認められ、アメリカ車の自動車産業を圧迫するとして輸出を制限させるほどで、その影響もあり特にフランスなどからの日本に対しての警戒心は高まった状態でした。

一方でワシントンポストなどの欧米のジャーナリズムには賛成の意見も少数ではあるが見られるようになりました。
アメリカのバイヤー達は山本の服をパリコレデビュー前から店頭に並べ、だんだんとパリのデパートの店頭にも並ぶようになりました。

この「みすぼらしさ」に美しさを見出す概念が西洋にはまだ追いついておらず、理解に苦しんだメディアが多数見られた。華やかな装飾ではなく真逆の思想で故意的に服をぼろぼろに加工する。
これは西洋の固定概念を打ちこわし、日本人が古くから持ってきた侘び寂び、陰翳礼讃の考え方を世界に発信したのです。山本も伝統的な西洋の美意識に異議申し立てをしてきたと語っています。

今でも何か新しい取り組みには良い評価だけではなく批評はつきものですが、その目新しさに当時は批評するしかなかったのです。
一般的に新しい物事を受け入れるには時間を費やしますが、山本・川久保の洋服は比較的早く5年ほどで世界に受け入れられていきました。
前衛的で、新しいファッションに注目せざるを得なかったからです。
ファッションにおける新たな突破口ともいわれるほど。

こちらは川久保玲の今までにある名言を引用したもの。

無視されるよりも、けなされるほうがましです

2011年8月25日付ウォールストリートジャーナルインタビュー

作品に対し『よかったですね』『綺麗だったですね』と皆から評価を受けたら、不安で仕方ないです。そんなにわかり易いものを作ったのかと、自己嫌悪に陥ってしまいます

2011年8月25日付ウォールストリートジャーナルインタビュー

このような川久保玲の言葉にもあるように、批判を共にする考え方は備わっていたのでしょう。全員に良いと受け入れてもらうことを最初から良しとしていなかったのです。

二人の服の特徴として、隙間から見える女性のなめらかで白い肌と陰影の対比。光と影の操り方の美しさ。

糸が織り成す明暗、布がたわみ重なり合って生まれる色の濃淡

FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性

この一言が本当に二人の服の全てを表現しているものだと思います。

日本は着物文化が長く、洋服の歴史が浅いですが、このように新たなファッションの可能性や思想を世界に発信したのです。

服は人が着ることで完結しますが、陰影や空気の間までも計算して作られた洋服作りには圧巻の一言です。

この出来事がなければ「黒」や「アシンメトリー」などに対しての偏見の眼差しはもう少し遅れて発展したのではないのでしょうか。
今私たちがこのような洋服を自然体で受け止められるのも過去の出来事があったからです。

WWDの山本さんへのインタビューでもなぜ黒という色にこだわるのかについて述べられています。

ーあらためてあなたが黒を操る理由は?
山本:この質問には何度も答えてきたが、デザイナーとしてのキャリアをスタートしたとき、日本の女性はフランス製のとにかく身体のラインを強調するゴージャスでカラフルな服を着ていた。そんな色に飽き飽きしていたし、そんな服に身を包む女性を魅力的とは思えなかった。だから、メンズの服を女性のために、そして誰の目も汚さないように、その魅力を引き出すように、黒で作ることを決めた。なぜ女性がメンズの服を着ているとよりセクシーに見えるのか考えてみてほしい。

WWD JAPAN

自立しようとしている女の人たちを応援するような労働着、保守的な女性像とは違うものをずっと作りたいと思っていた

「服をつくる モードを超えて」

やはり黒という色は儚さや貧しさとと同時に力強さも持ち合わせていることにより、自由であり、これほどまで私たちは魅了され続けているのですね。
二人は特に女性の体型などを理解しているからこそのシルエットも感慨深いです。

また、この黒の衝撃や日本人デザイナーからの影響を受けた人物としてジョン・ガリアーノやマルタン・マルジェラなどが有名です。
彼らのクリエイションにも日本ならではのものづくりや思想へのリスペクトが見られます。
これほどまでに世界的なデザイナー達にも影響を与えた大きな出来事であったことを理解していただけたら嬉しいです。


今回は「黒の衝撃による現代ファッションに与えた影響」について述べてみました。
ファッション史を語る上で切っても切れない関係の出来事について考察してみましたが、いかがでしたか?

ぜひみなさんに影響を与えた歴史や考察などもインスタグラムのDMなどで教えていただけると幸いです。

最後に、耀司さんの「服をつくる モードを超えて」の本を見返していると、質問コーナーで陰翳礼讃や侘び寂びの考え方と思想の的を得ているなと感じたものがあったのでご紹介させていただきます。

-自分の服やデザインをひとことで語る時、どんな言葉を使いますか。
「ドレスダウン」ですね。ドレスアップではないんです。うーん、「アンチ・ドレスアップ」という意味合いです。

「服をつくる モードを超えて」

今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました!

instagram __sayaka41

sayaka



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?