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どん底から手を伸ばす

最近はリハビリも落ち着いてきているので、
卵巣腫瘍の診断、入院、opeなどに至った経緯について
少しずつ話していこうと思います。

ちなみに、卵巣腫瘍に気づいたきっかけについては、
わたしのブログ3件目(以下)にまとめてあるので、
気になった方は読んでみてくださいね。

7月12日
内科の先生に精密検査を勧められた後、
わたしはすぐにMRIの予約を取りました。
もちろん、何かあるなら早めの方がいいと思って予約をしたのですが、
先生からは「子宮筋腫のような感じ」と言われていたので、
それならほとんど良性だし大丈夫だろうと軽く考えていました。

はじめてのMRI検査は、ちょっと怖かったです。
別に閉所恐怖症ではないのですが、
もし何かあったらという恐怖感と
イヤホンをしていても時折聴こえてくるMRIの作動音が
わたしの恐怖心を駆り立てていたように思います。

わたしの場合、スキャンニング専門のクリニックでMRI検査だけ受け、
その診断結果は元の内科クリニックで伝えられるというシステムだったのですが、
検査後、わたしは診断書の入った封筒とCDーRを持って、
はじめそのまま家に帰りました。
次のお休みの日にでも持っていけばいいかと思っていたんです。
でも、家に帰ってもどこかそわそわ。
何度もテーブルの上の封筒に目をやってしまう自分がいました。
結局、わたしは怖くなり、
絶対に開けてはいけないと言われていた封筒を開けて、
中身を見てしまいました。
そこに書かれていたのは、
「両側卵巣腫瘤:一元的には右卵巣癌の左卵巣転移を考える」の文字。
現代版玉手箱を開けた浦島太郎のようなシチュエーション。
一瞬で頭が空っぽになりました。
その後、がん?そんなわけない、信じられない、信じたくないと
突きつけられた現実を否定しては、その変えられない事実に
震えと涙が止まりませんでした。
それでも馬鹿なわたしは、
まだちゃんと診断を受けたわけじゃないし、、と一縷の望みをかけて、
その封筒とCDーRと財布と診察券とスマホだけを持って
家を飛び出し、終業時間前の内科クリニックに駆け込みました。
クリニックまでの道中は、あいにくの雨でとても混んでいて、
わたしはタクシーの中で、涙と焦燥感を抑えるのに必死でした。

診察室から名前が呼ばれ席に着いたわたしは、
どうか悪い結果は告げないで!と先生に目で訴えることもできず、
ただうつむいてその時を待つことしかできませんでした。
「あまりよくない結果ですが、」という言葉から始まったプチ告知は
わたしが事前に見た内容と同様とはいえ、
とても耐えられるものではありませんでした。
ついにわずかな望みもなくなったんだなと絶望した瞬間でした。
口を開く度に涙を流すわたしを見て、
先生は「ごめんね」とひたすら声をかけてくれました。
本来であれば、早期発見に貢献してくれた先生に感謝すべきなのに。
そのくらい、わたしはどうしていいか、どうするべきなのか、
分からなかったんです。

今でも、なぜ自分はこうなってしまったのかと考えるときがあります。
わたしは、一人前の看護師になる道、
一人の社会人として活躍する道をぶれずに懸命に走っていたはずです。
それなのに、あの夜、その道がいきなり崩れて
わたしは一瞬で奈落の底に落ちました。
暗く、寒く、深い地の底へ。
今わたしは1回目のopeを終えて、どん底から這い上がろうと
懸命に上へ上へと手を伸ばしているところです。
でも、その手がいつ伸ばせなくなるか、
上にたどり着くまでの崖がいつまた崩れるのかは
今のわたしにも分かりません。


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