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ドライヤー事件からのアムリタ

こんにちは。ヨガインストラクターの吉田紗弥と申します。
もう7月も近づき、かき氷や素麺など冷たい食べ物が美味しく感じられる季節となりましたが皆さまいかがお過ごしでしょうか。

今日もまたヨガ哲学のお話を進めてまいります。
今から約2000年前に成立されたとされるヨガの根本経典バガバットギーターには私たちの生活をよりよくしていくための賢者の教えが記されております。その中から一説ご紹介いたします。

「最初は毒のようで結末はアムリタのような幸福。それはサットヴァ的な幸福と言える。」

このバガバットギーターは国や宗教を超えて世界中で読まれている叙事詩であり、内容は戦士であるアルジュナ、神様であるクリシュナのふたつの会話形式の叙事詩となっております。アルジュナは私たちの人間の象徴として描かれており、クリシュナは私たちの目の前に広がっているすべての世界を表しております。

この言葉は、目の前の大きな課題に悩むアルジュナに対してクリシュナが励ます言葉となっております。
まず、「最初は毒のようで」とは最初のうちは毒を飲んだように苦しく苦い、そして「結末はアムリタ」のアムリタとはサンスクリット語で「ア」は否定の接頭語でありムリタは「死」をあらわす言葉ですので、アムリタとは不老不死、死が存在しないという意味です。またサットヴァという意味は「純質な」という意味があります。
ですのでこの一説は「最初は毒を飲んだ時のように苦しく、苦い経験は、結果として死が存在しないような、そして永遠の命を得たような幸福を得ることができる。それが純質な幸福である」という意味になります。

とはいえ私たちは幸せというものを、より簡単に、早く、楽に手に入れたいと思うのが常です。しかしこのバガバットギーターでは辛く、苦いと感じた経験やそれで得た知識は私たちの人生の可能性を大きく開き、死を感じることもないような大きな幸福感を得ることができると教えてくれているのです。

例えば山登りで例を挙げてみたいと思います。
大きな山を登る方法はいくつかありますが、まずはケーブルカーやリフトを使って短時間で登ってその頂上から景色を見る、または自分の足で一歩ずつ一歩ずつ時間をかけて登り山頂から景色を眺める。
どちらが景色を見るときに、達成感や充実感、幸福度が大きいかといえばやはり後者かと思います。

山を登る途中の苦しさ、苦い思い、そして苦労のその先にある幸福は、ケーブルカーで登るより遥かに大きな、まるで死を超えた純質的な幸福と言えるわけです。

ですのでこの一説は短絡的な幸福ではなく、毒のようで苦い経験を超えてこそ私たちは本当の幸せというものを得ることができると教えてくれているわけなのです。

私のお話になるのですが、私は小さい頃、英会話に通ったり、教育テレビで「英語で遊ぼう」「フルハウス」「フレンズ」など英語を学ぶことが大好きで、中学、高校も英語の成績も他の教科に比べると点数も高く、その自信から大学は英文学科を専攻したほどでした。大学でも留学生との交流会に積極的に参加し、日本に来る外国人と仲良くなるととても高揚した気分になれたのです。
アメリカの映画やドラマも大好きでその異国の文化に触れることがとても好きになっていきました。
そして大学卒業後は英語を使って仕事をしたいと思いホテルで就職しましたが、やはり異国で学ぶ思いが強くなり、一旦会社を辞めてワーキングホリデーでカナダのバンクーバーに行って英語を学ぶ決意をしたのです。

まずはホームステイしながら語学学校へ行くのですが、そこへ入ってもクラス分けした時は上級クラスに入ることができ、毎日楽しい日々を過ごします。
先生は陽気で楽しい先生も多く、自分のイメージしていた外国人との交流は常にウキウキしたもので、本当にドラマのフルハウスやフレンズのように周りは楽しい友達や先生に囲まれて過ごしていました。

自分の英語力にも自信があったのでまるで天狗になったかのように、英語の生活なんて大したことないなぁーと常にドヤ顔で何事もなく会話も問題なく過ごしていました。

そしてホームステイの期限が切れ、また3ヶ月の語学学校を卒業した後、韓国人の女の子とシェアハウスで生活することが決まりました。

そしてシェアハウスの初日、バスルームにドライヤーがないことに気づきます。
ドライヤーがなくては髪が濡れたまま寝ることになるので、学生の身としてドライヤーを買うことにお金を使うのも、と思いながら、ダウンタウンの大きなドラッグストアでドライヤーを買うことにしました。「そんなにいいものでなくてもいいや」と一番安いドライヤー、確か20ドルくらいだったと思います。

それを持ちレジに並ぶのですが、この時初めて自分で買い物することとなり、若干の緊張感を覚えます。レジの定員は日本の店員と全く対応が違い、携帯をみながら半ば仕事をするのがだるい、といった感じで無愛想に立っているのです。

日本は「いらっしゃいませ」と笑顔でお客様に挨拶するのが普通だと思いますが、ここバンクーバーのそのドラッグストアはその無愛想な態度が普通です、といったような雰囲気です。
今まではホームステイですべて生活必需品も揃っており、学校の先生も、ホームステイの家族もみんな優しく自分の英語の自信もあったので何も恐れることなく過ごしていたにも関わらず、その定員の態度をみて初めてドライヤーを買うということだけで怖気づいてきたのです。
そしていよいよお会計の際、定員さんにペラペラと何か質問されたのです。
その言葉が早いのか、単語が聞き取れていないのかもわからず、「?」といった表情をするとまた容赦なくペラペラと聞いてきたのです。さらに聞くのも恥ずかしくなり、
ここで日本人の癖なのか笑って誤魔化し「OK、OK」と意味もわからないのに答えたのです。
店員さんが気まずそうな、不安そうな顔をしながらレジを打ち、その合計がなんと20ドルの約2倍くらいする値段の40ドルを表示していたのです。

「え!?」と思いながらも、やっぱり買うのをやめたい、とか違うドライヤーにしたいという英語も咄嗟に出てこず、引き返すのも恥ずかしくなり、おどおどしてお金を払い、ドラッグストアを後にし、レシートを見るとその加算されたのは保証書の値段だったのです。
きっと彼女は英語で「保証書をつけますか?」と聞いていたのでしょう。

今まで生きてきて楽しい一面しか見てこなかった私は初めて屈辱を味わったようでした。自分の外国人のイメージはフルハウスやフレンズに出てくる陽気で優しい人々。
しかし実際は厚切りジェイソン(知っている方は知っているでしょうか、白人のお笑い芸人でテンション高めな外国人です)のような外国人を探す方が難しいくらいです。
そして英語圏で生活する人にとっては英語を話すのは当たり前。そして当たり前ですがそんな陽気で毎回明るい人に会うことが稀だと気づいたのです。

ドヤ顔オラオラ的になっていた私は途端に怒られた犬の様にシュンとなり、現実を知った私は、自分のプライドがボロボロと崩れていくように感じましたが、
そのドライヤー事件をきっかけにリアルな世界に挑戦する覚悟を決めます。

日本人の友達とでも英語で話し、なるべく現地の友達を多く作りたいと様々なコミュニティーに参加、そしてカフェでのアルバイト、現地のホテルでインターンシップにも挑戦しました。

自分の思い描いていたカナダ生活は辛く、ただ英語が喋れないだけで自分で勝手に劣等感を抱いている時もありました。ホームシックになるのもしばしば。
しかし、あっという間に1年以上が経過し、帰る頃には気づけば日常会話も問題なくできるようになったのです。

そして一年と半年が経った頃、日本に帰る時荷造りをしていた時そのドライヤーを見たときに思ったのです。そういえばこのドライヤーを買って苦い思いをしなければ今の私はなかった、と。

そしてその後も日本に帰ってきてからも英語を使う仕事をすることができ、ホテルの仕事に戻っても、そして現在もちょくちょく英語を使ってコミュニケーションを取ることができています。
そしてこの前、武蔵小山のヨガスタジオにいたときにニューヨークからきた外国人のダンサーの方とお話する機会があり、旅行の話や日本の生活などの日常会話を楽しくすることができました。

私たちは自分の幸せを簡単に手軽にすぐ得ようとしてしまうときもありますが、しかし、短絡的な幸福ではなく、毒のような苦しく、苦い経験の果てには、きっと死をも感じないような、永遠の命を得たような素晴らしい純質な幸福を得ることができます。

まるで険しい山を一歩ずつ一歩ずつ時間をかけて登り、山頂から広大な景色を仰ぐ登山家のように、どんなに今辛く、苦い経験が続いていたとしても、その先にあるアムリタの幸福、サットヴァ的な幸福を手に入れられることを思いながら毎日一歩ずつ歩いていくことにしましょう。


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