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20年前の懺悔、と感謝

20年くらい前、
図書館司書の資格を取るために、通信教育の入学金等30万円ほどを、両親にお願いして出してもらった。
当時、私は新卒の就職でつまづき、うつの様になって退職した後、アルバイトを掛け持ちして休日なしで働いていた。
田舎に帰っても仕事がないと思っていた。
アルバイトで生活しているので、身分の保障もなく、楽しかったが余裕はなかった。
そんな時、母から「図書館司書の資格があれば、地元の図書館でも就職できるみたいだよ」とも聞き、
小さい頃から本が好きだったこと、
当時の生活が不安定だったことから、
資格を取れば安定した仕事に就けるかもしれないと思い、母が送ってくれた資料を見て、勉強してみようと思ったのだった。

しかし、
現実は甘くなかった。
アルバイト生活は、休日なく働いてもギリギリだった。
平日は9時5時の仕事の後、夜は居酒屋。土日は馬券場で働いていたので、
勉強する時間を確保することも大変だった。
すぐにスクーリングに不安がよぎった。
こんな状況でスクーリングに行けるのか。仕事を休めば、当たり前に収入は減る。
スクーリングのために上京する費用。
航空券、宿泊や食事代などの滞在費。
スクーリングに行ったら、翌月は暮らせないかもしれない。

今なら、ネットでたくさんの情報を得ることができる。
働きながら勉強したり、資格取得をすることがどれだけ大変なことか、もっとよく考えてることができたかもしれない。

ただ、その時の私も、必死ではあったのだ。
甘かったかもしれないけれど、
必死だったのだ。


新卒で就職した銀行は、試験は受けたがコネもあった。超氷河期と言われていた時代で、周りは圧迫面接でコテンパンにやられていたが、私はそんなこともされずに済んだ。

その配属先で、私はベテランの派遣さんにかなりいびられた。
それは、先輩方や上司もわかっていて心配してくれていたが、
ベテランの派遣さんは支店長の親族だった。
私を心配した上司が支店長に話をしてくれ、私は支店長と面談したが、
そこで言われた言葉は、

「○○さんを許せないなら、あんたが辞める時だよ」

だった。

上司や先輩が私を庇ってくれるほど、派遣さんはおもしろくないのか当たりが強くなっていた。
そして、支店長にもあることないこと言っていたことがわかった。

許すも許さないも、私は上司が支店長に何をどう言ったのか知らないし、「耐えられないのでなんとかして下さい」と言ったり直訴したりしたことは一度もなかった。
行員同士だけでなくお客様の前でもいびられること、ミスをなすりつけられること、上司や先輩が注意しても何も変わらないどころかエスカレートすること。
自分は頼んでいないけれど、「○○さんには注意したんだけど…ごめんね、大丈夫かい?」に対して、
「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」と答え続けること。
両親の親しい人のコネで入ったこともあり、面倒をかけたり、まして辞めたりしたら親にもその人にも申し訳がたたない、と思ったのもあった。
だから、何も言わず、我慢だけした。

その積み重ねの先にあったのが、
「辞めるのはあんただよ」。

結局は。
トップの考えひとつなのだ。
この状況は、変えられない。
と思ってしまった。

今なら絶対、「変わらない」なんてことはないと思うし、
歳をとって面の皮も厚くなったから対応できる。
でも、
当時の私は、通勤途中の路上で倒れた。
出勤できなくなり、退職した。
携帯電話も出始めの時代で、今のような「つながり」はなかった。
当たり前のことなのに、
ひとりだ、と思った。

そして、2年弱で会社を辞めてしまったことは、当時の私には大きなショックだった。
私は取り立てて特技と言えることは何もなく、万事において「そこそこ」だった。
取り柄は、一生懸命。
だから、継続は力なりで、続けることしか能がなかった。
のに。
その「続けること」さえ、手放してしまったのだ。
取り柄が、ひとつもなくなった気がした。もう、「普通の」道から外れて、落ちこぼれたのだと思った。
自分の弱さが恥ずかしく、情けなく、許せなかった。

ひとりの部屋で、落ち込み続けた。

銀行の上司が精神科(今なら心療内科だろう)に一度連れて行ってくれた(休職するための診断書をもらうためだったのだろう)が、母は「通ってしまったら本当に病気になってしまう」と言った。
当時の私も、精神科というものがよくわからず不安だったのもあり、それきり行っていなかった。

そこから、
少し時間がかかったが、生活するために、安定した「就職」でなくてもアルバイトを探し、やってみたいと思ったことの門をたたいてみることにした。
正社員として働くことに、怖さもあった。また、ダメになるかもしれない。
アルバイトなら、短期もある。

そうして、アルバイトを掛け持ちする生活に入った。
途中から妹と同居になって心強くなったけれど、寝る時以外、家にいる時間はあまりなかった。
コンビニ店員、求人広告の原稿製作、遺跡の発掘調査、結婚式場の司会、競馬場、警備員、マスターと私しかいない居酒屋(マスターは料理担当なので奥の台所、私がカウンターで飲み物と焼き物担当)、、、。
安定はないが、興味を持って自分で応募して採用された仕事は、どれも楽しかった。
それでも、安定のない生活は親にも心配を掛けているのがわかっていた。
心配かけてごめんね。ギリギリだけど大丈夫、やってるよ!と言い続けた。

アルバイト生活になってかなり経ってから、「続けることを手放してしまったけど、あの時はそれが必要だったんだ」と思えた。
「一生懸命」は、残ってる。
取り柄は、まだひとつ、残ってる。
それで良い、と思えた。

そんな時の、司書資格取得話だった。
休みがほぼない生活をしていて、自分でも「これは若いからできる生活だな」と思っていた。
実際、インフルエンザに罹った時などは、身体的にも金銭的にも大打撃だった。
貧乏ヒマなしで働くためには、健康が絶対条件なのだ。
そんな生活を心配して資格取得を教えてくれた親にも、安心してもらえる道ができるかもしれない。
「一生懸命」やれば、できるかもしれない!と思ったのだ。

…でも、できなかった。
「一生懸命」は働くことで目一杯だった。まったく遊んでなかった訳ではないから、言い訳だけれど。
土曜のバイトの後に友達と飲んだり、
友達のお誕生日にはプレゼントを買ったり。
彼氏に会うのは、バイト帰りの時間しかないから、わざわざ時間をかけて一緒に歩いて帰ったりした。

その時間を削って勉強すれば良かったのかもしれない。
それでも多分、
スクーリングに行く気持ちとお金の余裕はなかったのだ。


アルバイト掛け持ち生活を3年ほど続けた後、航空会社の試験を受けて内定をもらった。
アルバイトはすべて辞めて引っ越すことになった。
気がつけば、掛け持ちアルバイト先は銀行よりも長く働いていた。
それぞれのバイト先で、送別会を開いてくれた。
本当に、楽しく、とても忙しく、あっという間に流れていった時間だった。
大変だったけど、
多分、とても心いっぱいに過ごした充実した時間だった。

でも。
30万円、
父母から助けてもらった大切なお金を
ドブに捨ててしまったのかもしれない。
本当に申し訳なく思っている。
挑戦しなかった訳ではないし、
資格を取ろうと思ったのは本当だ。
だけど、努力不足で投げてしまったのも本当だ。
本当にごめんなさい。

それでも、
私を信じて、心配しながらも信じて、
短大まで出してくれて、不安定でもやりたいことをやらせてくれて、
その後も今までずっとずっと私の居場所であり続けてくれている父母に、
本当に感謝している。
お父さんとお母さんでなければ、
私は多分、早い段階で生きる力をなくしていたかもしれない。

今でも甘ったれて生きている。
でも、
それができるのは、
家でだけだ。

それではダメなのかもしれないけれど、私は家がなければ、回復できない。

ずっと私の唯一の場所でいてくれて、
本当にありがとう。
どうにもならない時、
嵐が過ぎ去るまで丸くなってじっと待つ場所と、
待つことを許し続けてくれて、
本当にありがとう。

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