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やるか、やらないか、やるしかないか。

「嫌なこと」に取り組む時、私は「やる」か「やらない」かの二択で考えると鬱々としてしまうことが多い。

その理由は、「やる」と決めると、やりたくないことなのに、まるで「やりたかった」かのように取り組まないといけないようなプレッシャーを勝手に感じてしまい、自分の気持ちと行動のギャップに嫌気がさしてくるからだ。

それなら「やらない」という選択をすれば良いじゃないかと、人々は言うかもしれない。

それもそれで、私という人間は非常に複雑で、私がやりたくないなぁと思っていることに、前向きに(または必死に)取り組んでいる他者を見ると、その「やっている他者」と「やっていない自分」を比較し、やってない自分に引け目を感じてしまう。

そして、「なんて自分は気持ちの弱い人間なんだろう・・・」と落ち込むのだ。

だからこそ、嫌なことに対して「やる」か「やらない」か、この二択の選択に迫られた時、私はどっちも選択できず、鬱々とする。

そして、身動きが取れなくなってしまうのだ。

でも、「やる」か「やらない」に伴う、私の葛藤の質を比較すると、「やる」は私が一人で感じるプレッシャーのみであるが、「やらない」には、他者が伴っている。

他者が絡んでくる感情は非常に厄介である。

それは、他者の行動は自分の意思では変えられないからである。

となると「私:やっていない / 他者:やっている」という構造は、永遠に生まれ続け、私のネガティブな感情も「比較」という思考の中で、永遠に生み出され続ける。

この苦しみが「やらない」という選択をする以上、永遠に続くと思うとゾッとする。

だから、私にとって、「嫌なこと」は「やる」の一択しかないと思っているのだ。

でも、先に述べたように、「やる」には自ら発生する気分の良くない「プレッシャー」があるわけで、次は、それをどう乗り越えるかが問題となってくる。

そこで私が行き着いたのは「やるしかない」だ。

「やるしかない」の結果は結局「やる」なので、行動としては何も変わらない。

しかし、私の気持ちの持ち様は全く違う。

繰り返しになるが、「やる」だと、なんだか、「やりたい!」という肯定的な気持ちをもって、その嫌なことに取り組まなければいけないと勝手に思ってしまう。そして、その気持ちと自分の行動の乖離に一人で辛くなってしまうわけなのだが・・・

「やるしかない」は、「やる」と「しょうがない(あきらめ)」の消極的な意味が込められている。

人によっては、消極的なモチベーションで物事に取り組むことは、良くないと思うかもしれないが、私は「やるしかない」と思うことで、だいぶ、前向きに嫌なことを選択することができてきたように感じる。

その理由はきっと、「やりたい=やる」の方程式から考えが離れ「やりたくないけど、やる」という自分の状態を肯定できるからのような気がする。

また「やるしかない」と思うことで、人との比較に伴うネガティブな感情も全く発生しない。それもそれで、私にとっては、良い結果である。

何度も言うが、(そして、私が常に思っていることだが)

他者は変わらないし、生きている限り嫌なことは無限に襲ってくる。常に、良い時ばかりではないわけだから、自分がどうなれば一番納得できるか?それが一番大切なのではないかと思っている。

それが、私にとって「やるしかない」という言葉がひとつのように思えるのだ。



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