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人魚の涙 18

 濁流が逆巻いていた。
 私はそのなかで揉みくちゃになって、小石の混じる波打ち際に叩き付けられた。目が染みるなか、膝をついて這い上がり、海水を吸って重くなった衣服で立ち上がった。
 響ちゃん、と叫んで振り返ったが気配が薄い。先刻の波で手が離れてしまっていた。
「ここにいるよ」と予想外の方角から声が降って来た。
 海中ではない。
 海に降る急坂の石段に腰掛けている。
 右手にストラップで括り付けているLED電灯を向けると、眩しさに手を挙げて光軸を避けた。海中で見たときと同じ紺色のワンピース、素足にクロックスのサンダル。雨に打たれて濡れてはいたが、海に浸かったようではない。
 私は危ぶむ足取りで、その石段に向かった。
 並んで石段を登り、軽自動車のなかのタオルを渡した。
「先生の方がびちゃびちゃやん、いいよ。一枚で」
「巻いておきなさい、先生はハンドタオルがあるけん」
 それよりもまずグループLINEにメッセージと、通話報告をした。診療所には同僚の医師が待機している。救急を依頼するほどでもないので、とハンドルを握るとねっとりと貼りついた。手を返してみると血まみれになっている。ハンドタオルが夜目にどす黒い。
 ようやく出血しているのは、自分の左額だと気がついた。その瞬間に激痛が駆け巡る。熱いものがぞわぞわと頬を伝わる感触がある。ハンドタオルを押しつけて、車を路肩に停めて包帯代わりに縛っておいた。

 不覚にも目覚めたのは翌朝だった。
 診療所の薄いベッドで眠っていた。
 右腕には点滴のチューブが刺さっている。その処置を見て担当の看護師がわかった。
「しまった。今何時?」
「まだ7時前ですよ、ぐっすりでしたね」と点滴を打った看護師がくすくすと笑いながら声をかけた。もう勤続30年を超える白髪のベテランだった。
「処置は?」
「先生は裂傷で5針でしたよ」
「いや、響ちゃんは?」
「特に何も。雨に打たれていたので、保護者が到着するまで取り合えず髪を乾かしていただけです」
 そうか、と寝返りを打って暫く眠っていたらしい。
 カーテン越しに声を掛けられて応じると、同僚の外科医が入ってきた。
「殊勲の傷だな」
「ああ、先走った報いだよ」
「どうしてあんな海に飛び込んだんだ?響ちゃんから聞いたけど。何でもいきなり海に分け入ってさ」
 いや、それはと口ごもった。
「あとさ、お前は超音波が聞こえるようだな。流石は耳鼻科だ」
 え、と聞き返した。
「おれも専門じゃないけどさ、脳挫傷を疑ってエコー検査をしたんさ。ここにはMRIはないからな。それでエコーを当てたら意識不明のお前がうるさい、うるさいと文句を言うんだよ」


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