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コバルト・ブルウ

 コバルト・ブルウのクーペ
 V型6気筒のエンジンを積んでいる。猛獣のように顎を低くして、血を這うように構えている。薄目を開けたライトに街灯が反射している。
 開発段階のクレイモデルに、デザイナーが彫刻刀の刃でさっと刻んだ着想が、現実にこのボディに残されている。
 コートに入れた鍵は、金属的な存在感と重さがある。何度もポケットのなかでその重さを確かめて、ぼくは家を出るのが習いになっている。
 夏までは、ぼくのクーペには相棒がいた。
 リアシートが彼の居場所だった。
 とてもじゃないが、大人が座ることのできない空間だ。
 子供なら何とか座れそうだが、チャイルドシートなんて収まらない。第一、家庭を持つ予定なら、この車は選択しない。
 相棒は雄のミニチュア・シュナウザー。
 名前はセイとつけた。イタリア語で、6という意味だった。
 6気筒エンジンにあやかったものだった。
 銀色の毛が、サンタの髭のように口元を飾り、とても思慮深い眼をしていた。しかしながら行動は愛嬌そのものだった。
 一昨年、数年ぶりの積雪が、町を冷たく柔らかく包んだ早朝のことだ。
 初めて見たその白いものを警戒していたが、一歩踏み込んでからはいつも以上にリードを引いた。新雪を踏み込む音と感触が楽しいらしく、わざわざ雪の深いところを探りながら歩を進めた。
 そこに風が立って、再び雪が舞い始めた。
 セイははらはらと降ってきているそれを捉えようと、何度もジャンプして、大きく口を広げていた。
 ヨットハーバーを持つ公園が、海岸線にあった。
 大きな芝生広場もあるので、温かい季節には休日にはここでよくフリスビーで遊んだ。セイのお気に入りの場所だ。この公園までの峠道にクーペを乗り入れると、待ちきれないようにリアシートから鼻を鳴らせた。


「動物病院で検査したのね。結果を教えて頂戴」
 そう彼女は顔を付き合わせると、叩みかけるようにたずねた。
 会うのは半年ぶりになるだろうか。久しぶりに額に剣が立つのを見た。
 街にはイルミネーションが灯されていた。プレゼントを探しに来ているカップルで満たされたカフェで、ぼくたちの席だけが洞穴のように冷え冷えとしていた。
「膵臓に腫瘍があるらしい、癌だってことだ」
「なぜ気づかなかったの。手術を受けるの? 費用は訊いた?セイのためだったら、私も手助けしてあげたいと思うわ」
「沈黙の臓器で、進行が良くみえなかった症状だそうだ。夏場までは本当に元気で。はしゃいでいたんだが」と矢継ぎ早の質問の、最初の項目しか、ぼくは答えることができなかった。
「手術はどうするの」
「残念だけど、もう・・末期だそうだ。春は迎えられないかもしれない」
「そう。今となっては・・・ねえ、私に出来ることって、ないかな」
 ぼくは自宅の合鍵を取り出した。彼女には見慣れた鍵だ。
「迷惑じゃなかったら」
 戸惑いの色が露わになった。
「ぼくが不在のときでもいい。いつでも会いに来てやって欲しい。年末にかけて、仕事が詰まってきていて。セイも心細くなってると思う」
「そう」と彼女はため息をついた。じっと鍵を見つめていた。そして覚悟を決めたように、それをバッグに収めた。
 一度は戻された鍵だった。
 些細なことで衝突ばかりしていた頃、オロオロしながらセイが仲介に入っていたように思う。ことさら愛嬌を振り撒いて。

 歳末が迫った頃から、自宅に帰ると彼女の残り香がした。
 ほんのりと空気が温かいので、どれ程の時間を過ごしてくれたかが判った。
 セイは尻尾を振りながら盛大に歓迎してくれたが、腹をガーゼで覆っていた。体液が乳首から漏れ始めていた。
「よかったね。今日は寂しくなかったね」 
  今更ながらよりを戻す気はお互いになかった。だが、二人とセイで暮らした時間を無為なものにしたくはなかった。
   それでも冷蔵庫には、ぼくの好物がラップをかけて置いてあった。
 顔を会わさない、そんな距離感を合鍵が担っていた。
 ドライフードをお湯で柔らかくする。ぼくの分はレンジで温めた。テーブルの上と下で、セイと一緒に摂った。
 ケージをやめて寝る時も同じ部屋にした。夜中に痛みか痒みかを訴えることがあるからだ。ぼくのベッドの向かいにソファを置いて、カバーをかけてバスタオルの上がセイの寝床だった。
 緩くエアコンをかけた部屋のなかに、苦しげな呼吸音が混じっていた。びょうびょうと枯れ野に木枯らしが渡るような音が気になって、何度もセイの寝姿を見ていた。
「しばらくヨットハーバーに行ってないね」
 彼が春を迎えることを心底願った。
 そうしたらまた彼女も誘おう。もっと想い出をセイに残してあげたかった。その際は、一緒に過ごすことも納得してくれるだろう。
 それからあのフリスビーのことも思った。
 噛み跡が無数についていて、その傷のひとつひとつですら愛おしく思えた。
 興奮してセイが暴れてしまうから、しばらく見せてはいない。
 ぼくのクーペのリアシートに今もある。
   あの夏の日のままだ。  
 

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