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人魚の涙 28

 七夕飾りが用意されていた。
 診療所の自動ドアの内側に笹が準備されて、飾り付けが着々と進んでいる。近所の児童園の園児たちが来所して、色とりどりの短冊を飾ったらしい。
 そしてデスクにつくと小振りの七夕飾りが置いてある。怪訝に思い、支度をしている看護婦たちに視線を送ると、一気に捲し立てた。
「ああ、それ響ちゃんからのプレゼントですよ。探してくれてありがとうございますって、持ってきたのよ〜」
「なんかお返しをせんばですよ」と思い思いに被せてくる。
 さあて、黒髪の美少女に贈るようなものが手に入るか、と考えた。

 そして昨日の息子の言葉を思い出した。
「響ちゃんね、島のお義母さんと、仲が良くないんだって。あの嵐の夜も外に出されて、鍵まで掛けられたんだって」
「・・・それは響ちゃんに直接聞いたの?」
「ううん、先輩が言ってた」
 息子の先輩である中学生から伝え聞きしたらしい。
「そんなことはね、本当がどうか判らないし。色んな事もあるから他人には言っちゃいけんよ」
「わかっとる!こいも先輩が秘密やけんね、と言って教えてくれた。お父ちゃんだから言っただけや」
 口を尖らせて言い返してきた。

 カルテをPCから閲覧した。
 背筋に粘着質の汗がつらりと流れた。 
 波多野響というのが本名らしい。本人が書いたであろう、稚気の残る筆致だった。少女は義母の辻崎姓で中学生名簿に載っていた。
 その波多野、という姓に釘付けになったのだ。
 あの出稼ぎに来ていたという海女、人魚に逢いそして噛まれたという海女、その姓も波多野ではなかったか。
 ひょっとして彼女はその海女の孫か、縁者なのかもしれない。
 少女を引き取った辻崎という義母は、島の人間だった。
 小太りでいつも神経質そうな表情をしている。周囲の評判は思わしくない。奥眼から他人の表情を窺っている反面で、陰口を叩く。その言動は狭い島社会で、すぐに本人の耳に届いてしまう。そのために庇っていた人間も足が遠のいていく。
 そんな状態の彼女が義母として、思春期の娘の世話を焼いているのか。だれもが胸に疑問符を呑んでいる、そんな状態だった。
 この卓上の七夕飾りのお礼に、家庭の様子を見にいこうかな、そう思って、短冊が掛かっているのに気がついた。
 それを手に取る。

 おとなになりたくない。
 このままでいたい。

 折り畳まれた短冊に走り書きがある。
 響の言葉だと思う。
 
 
 

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