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長崎異聞 13

 長崎に異国の地が存在する。
 寛永時より通商の窓口として、浅瀬に防波堤を築き土砂を詰めて島を成した。当初は築島と呼ばれ、大店商人が造成費を賄ったという。
 島原の大乱の直前から工事が開始され、その造成には4年の歳月を要した。幕府の負担は築島大門とそこへの架橋に過ぎず、島の造成費用、銀300貫目を商人が支払った。
 それでこの長崎はいささかか、商人の言が強い。
 以降、その地を出島と呼ばる。
 当初は葡萄牙ポルトガルが主たる相手国であったが、島原の大乱により幕府は入国禁止と国外退去を申し付けた。困ったのが出島商人である。出島の賃借料として銀80貫目を貰い受けて出資を回収していたので、奉行所に陳情する。
 果たして空き家の出島に、幕府は平戸から和蘭オランダ人を移設せしめた。
 彼hらは莫大な利益と相剋して、監獄にも近い窮屈な生活を為すのである。
 けだし時代は下り、今や出島は埋立てが続き地続きとなる。扇形の石積みが海岸線に残るのみだ。
 それでも出島の異人は、和蘭人と奴隷のマレー人を含めて15乃至ないし20名に過ぎない。
 その一方で清国人は、万を数えるほど住まう。当然ながら新地だけでは生活が成り立つはずもない。
 それで新地に隣接する丘陵地を均して、唐人屋敷と呼ばれる街区を造成した。かつてはその街区も塀が巡らされ、長崎奉行所が櫓を立てて物見を常に置いていた。しかしながらその規模は出島の比ではない。
 その街区を館内と今は呼ばる。

 その謂れの街区に、橘醍醐は居る。
 伴として連れた同僚の剣は、心許ない。
 であるが彼は意気軒昂として、その異世界に足を踏み入れた。
 市場らしき天幕の下で野菜売りがいる。その隣で豚の首を並べている店がある。丸い俎板に肉が並べてあり経木きょうぎで包んで手渡している。
 異国語の会話しか認められぬ。
「清国語でも福建訛りでさあ」と吾郎左が肩をすくめ、脂汗を浮かせながら早口で言う。
「言葉が通じるのか」
「些か」
「では誰かを引き留め、尋ね人に参ったと申せ。金子きんすの用意もあるとな」
「いけませっ、いけません!金子などと言っては。その大和言葉のみ、連中は解するのです」
「では桂小五郎はいるか、と申せ。橘醍醐がひと試合仕る、とな」
 義顕が蚊でも集っていたかのように、自ら額をぴしゃりと叩いた。その掌の下は渋柿でも齧ったようなしかつらしい顔である。
試合しあうのでござりますか」
「然り、父上から賜ったこの同田貫どうたぬき、未だに鯉口を切る相手に不足をしておる」
 同田貫、肥後藩菊池を祖とする刀匠の作である。
 父祖の島原大乱の折に恩賞として賜ったと聞く。
 刃肉豊かにつき、きたえも実直で据わりの良い波紋で、華美な装飾のないこしらえとなっている。
 すぐること3年前、今上天皇の御幸の際に、能や奏楽の狭間に天覧兜割が催された。十二間筋の兜を両断せしめた剛刀が、同田貫の一振りである。
 まさしく醍醐に似つかわしい差し料であった。


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