2/2 今日の日本史用語(15個)

大坂御坊:蓮如が実如に本願寺宗主の座を譲った後、大坂に建て隠棲した坊舎。石山坊とも呼ばれる。「石山」の名は、建設の際に礎石が土中に置かれていたかのごとく出現したという奇瑞譚に基づく。1532年、法華一揆により山科本願寺が焼かれた後、証如が一向宗の本拠地をここに移し、石山本願寺となる。

土佐派の裏切り:第一議会において、政府が民党の要求を一部認めて妥協を図り、立憲自由党土佐派の協力を得、予算案を成立させた。政府・民党とも最初の議会から対立が激化し、予算不成立となり、欧米諸国から日本人の立憲政治運用能力に疑問を持たれることを避けようという自制心を抱いていた。

二所朝廷:809年に弟の嵯峨天皇に譲位した平城太政天皇が、嵯峨天皇の病に乗じて、寵愛する藤原薬子とその兄仲成とともに再び権力を握ろうとし、平城京遷都を図り政治的混乱が生じた状態を指す。嵯峨天皇側が勝利し、平城太政天皇は出家、仲成は射殺、薬子は毒を飲み死んだ。

輸出自主規制:1970年代~80年代の日米貿易摩擦問題の影響を受け、日本側は通産省の指導の下、米国への輸出を調整した。1976年の鉄鋼、1981年の自動車、1984年のポリエステル織物などが主な対象品目。

弥生時代早期:弥生時代は土器の変遷、大陸からもたらされた青銅器の年代などから前期(紀元前5~2世紀)、中期(紀元前2~紀元1世紀)、後期(1~3世紀)に分けられるが、水田稲作の始まった縄文時代晩期の紀元前5世紀を弥生時代早期とする意見もある。

伊賀采女:天智天皇の妃。伊賀の豪族の出身で大友皇子を生む。天智天皇の死後、大友皇子は近江朝廷の中心に立ち、江戸時代後期の学者からは皇子の即位を主張する意見もあり1870年に皇子は「弘文天皇」と追諡されたが、母の身分ゆえにもともと即位できない立場にあった。

池田成彬:1867~1950。1938年5月、近衛内閣の大蔵大臣として入閣。三井財閥の中心人物。池田の入閣の背景には、かつて軍部から排撃された旧財閥も軍需生産に協力的になったこと、政府が国家総動員法の制定など経済統制に対する財界の不満を解消し、協力を得ようとしていたことがある。

アウン=サン:1915~1947。ビルマ独立運動の指導者。1940年までタキン党書記長。第二次世界大戦中、対日協力を余儀なくされたが、44年に反ファシスト人民事由連盟を結成し、抗日運動を展開。47年、イギリスのアトリー首相と独立協定を結んだが、独立を目前に右翼政治家に暗殺された。

紅巾の乱:1351~1366。元末に白蓮教等の宗教結社が起こした農民反乱。名称は紅い頭巾を目印にしたことに由来。1351年、河北で白蓮教徒の挙兵が事前に発覚し指導者の韓山童が殺された。その後、子の韓林児を擁した白蓮教徒が蜂起し、また弥勒教徒も蜂起して大農民反乱となった。

労働関係調整法:1946年制定。労働関係の公平な調整、労働争議の予防、解決を図ることを目的とした法律。労働争議を調整するための労働委員会による斡旋、調停、仲裁、公益事業の労働争議に対する内閣総理大臣の緊急調整などを定めている。

内政不干渉:各国の主権を尊重し、各国の国内政治に関しては、その国の決定に任せ、他国が干渉しないということ。現代の国際法上の原則であり、国際連合憲章にも定められている。

八角墳:7世紀の中頃から8世紀初頭にかけ、近畿の大王が営んだ古墳。大王にのみ固有の墓で、一般の豪族層を超越した存在であることを墳墓造営の上でも示そうとしたと考えられる。

宗資国:?~1274。対馬守護代。文禄の役で対馬に上陸した元軍と戦い敗死。

配属将校:大正期の山梨軍縮・宇垣軍縮で整理された将校の失業対策と国防概念の普及を図り、1925年の現役将校学校配属令で中学校以上に置かれた。これにより中学校以上の学校では軍事教練が正課となった。

ブロートン:1762~1821。イギリス人。1796年から翌年にかけ、蝦夷地の絵鞆(室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するための測量を行う。幕府はこの事件を機に、1798年、近藤重蔵や最上徳内らに千島を探査させ、その翌年には東蝦夷地を直轄地とし、1802年に箱館奉行を設けた。

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