【短編小説】オールドファッション
静かに眠る彼の二の腕が冷え切っていたので、私はそっと毛布をかけた。寒いと感じたら、彼が無意識のうちに毛布の中に潜っていくことを私は知っている。それでも私はそうせずにはいられない。
こういう些細な衝動は愛からくるのだろうか。だとしたら、愛は押しつけがましいものだ。
目が覚めた時には彼はもう起きていて、ケータイを見ながらコーヒーを飲んでいた。7時15分。アラームが鳴ったのは15分も前のことだったらしい。
「もう起きてたのなら起こしてくれてもよかったじゃ ない」
「いやあ、気持ち良さそうに寝てたから」
いくら良い眠りについていようと、私が会社に行かなければならないことを、彼は知っているはずだ。私が急いで身支度をするのを嫌うことも。起こさないという彼の選択が、彼なりの優しさの表れならば、私はそれを受け取ることはできない。
玄関でいつも通り抱きしめ合いながら、彼はやっぱり起こせばよかったね、と言った。私のメイクやスーツが崩れないように力を緩めていてくれる彼は、決して無粋な訳ではないのだ。ただ、私たちは違う人間なのだと改めて思わずにはいられない瞬間が多くある。
そして私は願うのだ。私が感じている違和感を、どうか彼も感じていませんように。
駅から地下鉄に乗る彼と、バスに乗る私。私たちはいつも、駅までの道を一緒に歩く。さっきした抱擁とは違って、全ての隙間を埋めるように強く手を繋いで。
「君は今夜もうちに来てくれる?」
「ごめん、今日は高校の同級生と飲み行くの」
「そっか。 帰りは気をつけてね」
「ありがとう。 今日も頑張ろうね」
君に言われると頑張れちゃうなあ、と彼は笑う。出会った頃、彼の纏う柔らかな雰囲気が好きだった。
なんて優しいの、と思いながら一人でオールドファッションを食べている。お砂糖ってなんて優しいの、と。
《ごめん!残業長引きそうだからまた別の日に埋め合わせさせて!》
忙しそうな同級生との約束がなくなって、夜を持て余すことになったからである。今日の疲れはお酒で取りたくない気分だったので、ドーナツのお店に来た。なんだか無性に甘いものが欲しかった。
甘さには二種類ある。心で吸収するものと、身体で吸収するもの。どちらも、もう一方の代替にはなり得ない。私が本当に欲しいのは前者だ。私が一方的に与えてしまう愛情を彼が、彼に与えられる勝手な愛情を私が甘んじて受け入れることができるのなら、どれだけ気が楽になるだろう。
オールドファッションはしっとり、と言うよりもただ湿っぽい感じがした。あの特徴的な割れ目もなんだかサクサクしない。それでも、私はオールドファッションの甘さをありがたく全身で取り込むことにした。
本当は自分でも気がついているのだ。恋人の愛情を素直に受け止められない私がいることに。今朝だって誘われたことが本当は嬉しかったのに、今日の予定がなくなったことを彼に伝えたいのに躊躇う私がいる。高めのカロリーだって、栄養の偏りだって、そういう煩わしいものも含めて、スイーツの甘さは受け入れられるのに。
ドーナツに与えられる無条件の優しさに寄りかかることはこんなにも簡単なのに。どうして恋人は黙って私の一部になってくれないの。
隣のテーブルの女子高生二人が、噂話をしている。あいつも好きって言っちゃえばいいのにね。
分かるー。
はっとした。高校生にすら分かる簡単なことなのかもしれない。私はお店の中だというのに、彼に電話をかけた。不貞腐れないで会いたいと言えばいい話なのかもしれない。愛情が伝わっているのか、聞いてみればいいのかもしれない。
4コール目で彼の声に切り替わった。もしもし。
「どうしたの? 飲み会は?」
「なくなっちゃった」
「なんか凄くあいたいから迎えに行く」
「あいたい?」
「うん、 会いたい」
あはは、と私は思わず笑った。彼の声は電話に出た時よりもワントーン上がっているし、私の居場所を聞くなり電話の奥でガチャガチャと忙しくなった。
別に迎えに来なくたって私はちゃんと彼の元へ行くのに。やっぱり押しつけがましいものだ。でも、少なくとも今はまだ、それでいいのかもしれない。
「あ、 ドーナツ買っておくけど何がいい?」
「オールドファッション!」
【この作品はhaccaノベル様にて掲載していただいております】
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