からあげのタッパー
屋外でからあげのタッパーを開けたときの匂いが、世界で一番好きだ。
先日、妻と近所の公園でお花見をした。
家で作ったからあげ、卵焼き、おにぎりを食べながら、ぼんやり眺める桜がきれいだった。
タッパーを開けると、鶏肉と、サラダ油と、多めの片栗粉で揚がった衣の香ばしさが、太陽とレジャーシートに包まれて、私の鼻を通り抜けていく。
私はこの匂いを嗅ぐと、まるでテレビのチャンネルが切り変わったかのように、子どもの頃の運動会の情景がノータイムで蘇る。
体操着と赤白帽子をかぶった、運動会当日の、小学生の私にタイムスリップしてしまう。
聞くと、妻も同じようだった。
朝早くから台所に立ち、からあげや卵焼きをてきぱきと作り、塩水をつけた手でおにぎりをせっせと握っていく母。
前日夜に仕掛けたビデオカメラの充電をチェックし、父兄用の運動会のしおりで私の出場種目や位置の最終確認をする父。
この日のために川崎から来てくれた、母方のおじいちゃんとおばあちゃん。
いつもと違う朝。いつもと違う学校の校庭。
10月の澄んだ高い空。
仰々しくはためく万国旗。
テントから流れる競争心を煽るBGM。
校舎のベランダにかかる得点掲示板。
ブルーシートのゴワゴワした座り心地。
水筒から聞こえる溶け残った氷の音。
ステンレスの蓋の舌触り。
少し薄まった安い麦茶の味。
浮足立って仕方がなかった運動会当日の嬉しさ、興奮、緊張が、今この手に持つからあげのタッパーの中で、一緒くたになって詰め込まれていたように、大人の私をあっという間にあの頃に呼び戻してしまう。
私が世界で三番目に好きな匂いである「防虫剤の匂い」も、こういった記憶とセットになって保存されている。
幼稚園のお遊戯会の劇で、私は妖精役を演じることになった。
確かパンの妖精だったと思う。幼い私は、なぜかパンの妖精はスタイリッシュな見た目をしていると思っていた。街のおしゃれなパン屋さんの、洗練された白のイメージだ。
しかし、先生から渡されたパンの妖精の衣装は、5歳児の私が想像していた都会的なルックとは程遠い、サンタとピエロを足して二で割ってバーゲンセールに出したような、メルヘン&ファンシーなビジュアルをしていた。
うわーーー……ダッサぁ……。
何かに対して、シンプルに「ダサい」という感情を持った初めての体験だったかもしれない。
衣替えの際など、この防虫剤の匂いを嗅ぐと、あのときのシンプルダサ衣装の妙にツヤツヤした素材感や、衣装を渡してくれた先生の優しい笑顔、教室床のワックスの鈍いテカりなどの情景が、私の「ダッサぁ……」の出囃子とともに、驚くほど鮮やかに息を吹き返してくる。
記憶としては正直あまりいいタイプのものではないはずなのに、なぜかはっきりと結びついているし、その記憶も含めて、私はこの防虫剤の匂いが好きだと感じてしまうのだ。うっとりとさえしてしまう。
なぜだろう。単純に、懐かしさという上乗せがあるからだろうか。
そういう意味では、大人になってからは、こうした「匂いと記憶のセット」と呼べる思い出があまりないような気がする。
出会うものすべてが初めての体験だった子ども時代のほうが、そういった印象的な結びつきが強まる傾向があるのだろうか。
これからの人生でも、匂いと記憶が手をつなぎ、何かに触れてワッと溢れ出すような「からあげのタッパー」を、できれば多く残していきたい。
そのタッパーに詰められた登場人物が、私一人ではなく、今度は妻も一緒であれば、さらに嬉しいなと思う。
ちなみに、私が世界で二番目に好きな匂いは、誕生日ケーキのローソクの火を消した後の、ゆらゆらと揺れる、細く、焦げ臭い、煙の匂いだ。
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