蓄積され過ぎる情報の中での表現。主観と客観と集団心理の中で ~作家売買~
SNSは恐怖もあるけど、面白さもある。
だから、閲覧をしてる。
ある時、とあるアカウントが自作の絵をアップしていた。そしてSNSで繋がっている人同士がワイワイと感想を書き込んでいた。
その中で、「その絵は○○作品を意識していますか?」と問いかけていた。
絵を描いたアカウントは「意識はしてませんでしたが、大好きな作品なので、無意識に影響を受けているのかもしれません。」っと回答してた。
結構、どこかでも見かけるやり取りだった。
ただ、私はその絵を見ても○○作品を連想をしなかった。
強いて言うなら○○作品より、もっと前に発表されていた△△作品でよく見かけたような感覚だったが、それでも、正直「よくある絵の技法の1つ」だと思っていた。
だから、あえて「○○作品」「△△作品」という固定の強いイメージは持てず、見やすく、感じやすく、良い絵だな~って思った。
たくさんの絵、文字、動画、構図や制作手法がアップされてネットで世界中から閲覧ができる今、便利な分、何か一つを創作すると、必ず「これはアノ作品に似てる」という声がなされる。
何より、恐怖だったのは「普通のアカウント(一人の人間という設定。SNSアカウントは複数持てたりも可能)」が何の気なしに、なんの根拠もなく、世界中に対して発言される。
言葉は自由だし、発言者たちに悪はいません。
本当に、何の気なしに、「(あ、この絵は○○に似ていて好きだな~)」っていう心の中の気持ちを文字化して、相手に伝えて、同意を得たことによる同じ嗜好の相手を見つけていた。
会話の流れで、検索して出てきた○○作品の絵をアップもされていた。
昔は、紙でしか情報保存ができなかったから、その紙がなくなれば情報も無くなり、風化していった。
もし、今回のようなケースがあったとしても、ネットがない時代では、今より自分が思う情報には辿りつけなくって、日々の生活に追われて忘れられたりもした。
これからは風化が無くなっていくのだろう。
「検索」ができてしまう。書き込みや発言は自由になされる。
ただの、その時のちょっとした気分で書いた書き込みさえも、場合によっちゃ、ずっとずっと残る。
「一個人の感想」という言葉が、作者を助けることもあれば、追い詰めれらることもあるのだろう。
昔からのファンレターという形ではなく、全世界に対して、残る形で「感想」「レビュー」「☆」「いいね」が蓄積されていく。
創作していくものには覚悟が必要になる。
「これって、アレのパクリでしょ?」
どれだけ屈辱的な言葉だろうと、それが読み手の感想なら、作者は受け入れるしかないのだろうか。
自分の表現力のなさを痛感する日々の物語。
今日も、誰かに笑われていますように
執筆者:さわ