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過去は変えられる

「不登校」というキーワードで文章を書こうと思いついたのだが、なにを書いていいかわからず30分近くぼーっとしてしまった。

別に話したいことがないわけではない。多分困っている人は多いのだろうから、わたしの実体験でも書けば役に立つ可能性はあるだろう。他にも、不登校を売りにしたYouTuberに呈したい苦言もある。でもなんというか、書くことにあまり乗り気になれない。

わたしは自分が不登校だったことを、たまに思い出す。ここでは「だった」と過去形なのがミソで、今のわたしは不登校ではない。義務教育をとうに終えているのだから当然ではあるが、その違いは結構重要だ。

つまりわたしにとっては、不登校は過去の話なのだ。そしてそれはわたしだけではなく、全ての不登校生に同じ考えが当てはまる。一生不登校の人はいない。義務教育というステージが時間軸で固定されているため、これは絶対だ。

この不登校だったという事実は、私にとっていろんな意味を持つ。例えば就活の時わたしは、不登校だった頃から大学生に至るまでの経緯を、よく面接で話した。これには過去の挫折経験からここまで成長したという、意思の強さをアピールする意図があった。そのアピールはそれなりの効果を持っていて、営業職という職種に要求されるマインドにマッチしていたこともあってか、高評価をいただくことが多かった。

あるいは、わたしは隠す。当たり前のように中学校に行っていたように話を合わせることもできる。「不登校」というワードは強い意味合いを持ち、他の話題を遮ってしまう場合もあるからだ。そうやってわたしは、自分の過去をどのように表現するか、時と場合によってコントロールする。

『マチネの終わりに』という美しい小説に、示唆的なセリフがある。序盤で主人公の男女が出会い、互いに惹かれ合うシーン。難解な話題になり周囲の人が困惑を示す中、二人だけが意味を理解し、共感を分かち合う瞬間を描いた場面で、男は印象的なことを言う。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。
平野啓一郎『マチネの終わりに』

エモーショナルな問題だ。過去に起きたなにかを、経験していたその最中と、現在思い返すのとでは感じるものが異なる場合がある。たわいもない瞬間も劇的な瞬間も、素敵な思い出にするのか苦い思い出にするのかを決めるのは、未来の自分なのだ。

男はその後に、さらに美しい言葉を続ける。

過去はそれくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
平野啓一郎『マチネの終わりに』

過去とは言い換えれば思い出であり、経験や記憶である。それらは全て、今経験したものが過去へと過ぎ去っていくのであり、つまりは今この瞬間というのもまた、簡単に変化してしまう繊細なものなのだ。

そしてそれは逆説的に、変わらない過去を作り上げる素晴らしさも人生にはあるのだと、わたしは考えている。とても繊細なものだからこそ、何年経っても変わらない過去があるとするなら、それはおそらく人生の中で数度しか訪れないほどの幸福な瞬間なのだろう。

「不登校」という実用的なテーマについて書くつもりが、いつの間にか非常に抽象的な考えに移ってしまった。やっぱりわたしは、過去を変えているんだと思う。

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