見出し画像

City of stars

「自分なんかが」と思うことがある。自分なんかがこんないい思いをできるのはなぜだろうとか、そんな素晴らしい結果が出せるはずがないとか。そういう思考はきっと、囚われているのだと思う。なにに囚われているのか? それは、よくわからない。

映画『ラ・ラ・ランド』で、ライアン・ゴズリング演じる主人公のセブが同じような思いを吐露するシーンがある。

Guys like me work their whole lives to be in something that's successful, that people like.

直訳すると「俺みたいなやつらは成功を夢見て生きている」みたいな意味になる。映画の日本語字幕では「俺なんかが成功を味わえた」と訳されている。本来の夢とは違うことで成功を手に入れたセブのこの台詞は、どことなく切なく聞こえる。

この時のセブは、過去の自分に囚われている。自分が思い描いていた夢がなかなか実現しない状況が続く中で、自分なんかは成功できないと思い込んでいる。だからこそ彼は、そんな状況で掴んだ成功に妥協しようと考えるし、夢見ていた状況とは多少違っても仕方がないと受け入れる。

心理学者の河合隼雄の著書『コンプレックス』によると、何かにおいて劣等であることと、その劣等を受け入れられずもがくことは異なるという。例えばソフトボールにおいて、それが下手な人はただソフトボールに劣等なだけである。しかしソフトボールが下手なことを認められず、無理にピッチャーをやりたがったり、ぶつくさ文句を言い続ける人は、劣等感コップレックスを持っていることになる。

セブはどちらに属するだろう? 俺なんかがこんな成功を収められるなんてと、夢を掴みきれなかった自分の劣等を受け入れているのはコンプレックスがない状態と言える。一方で、その劣等に囚われて行動を制限されているのは、コンプレックス状態とも言える。

わたしがたまに思う「自分なんかが」という思考は、本当に不意に、単純な疑問として浮かんでくる。なんで自分なんかが、こんなに恵まれているんだろうと。その背景には過去の不登校や現在の怠惰などがあり、それがわたしにとっての劣等であることは間違いない。ではわたしはそのことを心理的に受け入れられておらず、コンプレックス状態になっているかと言われれば、それは違う気がする。わたしは、少なくとも自分では認知的に共和していると考えている。

同じく心理学者のアドラーは「劣等感をどう扱うか」が問題だと述べた。不意に「自分なんかが」と自己嫌悪に陥る分には、わたしは構わないと思う。優れた人がたくさんいて、輝いている人が目立つ世の中だ。だからこそ、そうは思っても劣等を抱いた自分と理想とのギャップを、無理に複合しないことが大事なのだと思う。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?