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椎名林檎と、わたしの恐怖と、東京。


どんな最期を迎えて死ぬんだろう。変わらず誰にも甘えず、ずっとひとりなら長いわ。高が知れた未来。短く切り上げて消え去りたい。呑み込んで東京。
                        「TOKYO」(『三毒史』)




死について。

同じ空は明日を始めてしまう 例えあたしが息を止めても
「同じ夜」(『無罪モラトリアム』)


死を強烈に恐れるようになったのはいつからだろう。中学校に入る頃には、常に背後につき纏う死の影に、強烈に怯えていた気がする。今この瞬間に火災が起きてしまうかもしれないこと、電車で刃物を背に突き立てられてしまう可能性があること、明日にも不治の病が発覚してしまうかもしれないこと。そして死というのは自分が死んでいるという意識すらない、喪失の実感すら喪失した、虚無が永遠と続いていく状態だということ。

わたしが死んでもその存在は他者の心の中に生き続けるなんて言うけれど、じゃあその他者も死んだらわたしの生きた証は何もなくなってしまうじゃないか。わたしに関連するすべてが消え失せるということは、すなわちわたしにとっては世界の消失を意味していて、でもその世界が消滅する前にわたし自身は消えているわけで、それならわたしも世界も最初からなかったことに等しいじゃないか、何を持ってわたしは生きていたと証明できるのか。そもそもどうして世界なんてものが生まれたのか。

そして自分自身の喪失も勿論怖かったけれど、それ以上に私が死んでも世界は何も問題なく明日を迎えるというその抗いようのない事実、わたしの死後も時間が永遠に続いていくその果てのなさ、無限性。

そんなものについて延々と考えてはどうしようもない絶望に打ちひしがれている時期があった。

今でも災害や事故のニュースを見てしまい、眠れなくなった夜にその影はそっと忍び込んでくる。わたしの頬を冷たい触手で撫で回し、唐突にその存在をわたしの中で蘇らせる。死は生の対極としてではなく、その一部として存在している…村上春樹の語っていたこの真理を、早く呑み込めたらいいのにね。

同じ空は明日を始めてしまう 例え君が此処に居なくても
「同じ夜」(『無罪モラトリアム』)




性について。

ちっぽけで汚らしい動物 雌      
「サカナ」(『勝訴ストリップ』)


中高六年間、女子校に通っていた。
登下校の途中で性的な被害を与えてくる不審者に何度か出くわしたり、馴れ馴れしいナンパに声をかけられたり、わたしは若い女性という生き物は、時にひどく不躾に「性的にまなざされる」コンテンツであるということを身をもって知った。同世代の男性から「恋愛を通してまなざされる」ことよりも、遥かに先に。

周りの友人誰もが同様の経験をしていたし、わたしよりももっとひどい被害に遭っている女の子はたくさんいたし、一部の男性による暴力的なほどの「性的なまなざし」は当たり前のものとして社会に蔓延っていて、もう私たちの声の届く範疇にはなかった。だからその「まなざし」は仕方のないものとして飲み込んで、行き場のない怒りは自分自身への、女性性への嫌悪となって腹の底に溜まっていった。女に生まれたわたしが悪いのだと。

今は、以前に比べたらずっと素直に女性性を享受できるようになった。メイクを施したり小花柄の服を選んだりする瞬間、わたしの胸は抗いようもなく高鳴るし、「性的被害は女性のせいではない」と声に出して訴えてくれる人が増えたから。それでも、「女性である」ことに起因する不利や恐怖に巡り合った瞬間、未だにわたしの頭は逡巡の中で無意識に自責の念を選びとってしまう。

「女性であること」は、わたしにとって至上の喜びであり、かつ最大の呪いであるのだ。

「愛している」という腕の中で 只易々と泳いで行くのかしら
「サカナ」(『勝訴ストリップ』)




孤独について。

終わりにはどうせ独りだし  此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが好い
「本能」(『勝訴ストリップ』)


友達は多い方だと思う。それでも、「人間関係」というものを漠然とした苦手意識が拭えない。だって人と関わり合っていると、他人は結局他人なのだと、そんな当たり前だけど誰もが認めるのを拒んでいる明白な事実を、再三目の前に突きつけられるから。

人間関係は恐ろしいくらい儚く、流動的だ。一ヶ月前には仲の良かった相手と驚くくらい疎遠になってしまうこともあれば、全く話したことのない相手と一瞬で打ち解けてしまうこともある。その流動性を支配できる立場にあればそんな変化に振り回されないのだろうけれど、わたしはその点に関しては驚くほど脆弱だ。人が自分の意に反して去っていってしまうのが本当に怖い。中高時代の友人関係が割と流動的で、その変化が自分の意にそぐわないことが多かったからなのか、少しでも他者の態度に変化が見えると漠然とした不安を抱いてしまう、何か不快に感じさせることを、傷つけるようなことをしてしまったのではないかと。それでもそんなときにわたしにできることは何一つとして存在しない、その無力感がどうにも耐えられない。

しかし最近は、人はそんなに簡単に人を嫌ったりしないこと、また、一度離れた友人関係でも時間が経つと戻ったりすることもあることを知ったので、以前よりは安心して他者との関係性をシンプルに受け入れられるようになった。

それでも、どんなに親しい友達だって、20年以上一緒に暮らす家族だって、理解しきれない心の泉、あるいは沼は必ず存在していて、いつだってそのことがわたしを耐えず悲しませる。自分の進路についてとか、恋愛についてとか、どうしても好きな本や映画の話とか、そういう自身の核となる部分について他者に話そうとするとき、いつでもそれらをうまく言語化することができないし、したところで「わからない」といった反応をされることが多いし、逆にそれらについて語る他者の言葉が未知の外国語のように響くときもある。自分に近い何かを共有しようとすることは、かえって互いの輪郭を明白にすることと同義で、自分が結局孤独であることを証明する作業なのだ。

淋しいのはお互い様で 正しく舐め合う傷は誰も何も咎められない
「本能」(『勝訴ストリップ』)







愛について。

なんて大それたことを夢見てしまったんだろう
あんな傲慢な類の愛を押し付けたり
「正しい街」(『無罪モラトリアム』)


世の中には、二種類の人間がいる。
愛を与えたい人間と、愛を与えられたい人間。

わたしは前者だ。後者の方が楽だと信じ憧れ、それでも愛を与えることをやめられない、そんな愚かで不恰好な人間。それでも最近、22年近く生きてきてようやく気が付いたのだけれど、どうやら愛というのは受け取る側にその意思がないと何も意味がないものであり、むしろただの重荷でしかないらしい。

「愛は育むもの」なんて言うけれど、わたしは根本的に「関係性を育む」ということがすごく苦手で、相手との距離感を全て自分で決めたがる。誰に対しても自分で相手との関係性の境界線を定め、それより相手が遠いと寂しく思い、近すぎると恐怖心を抱いてしまう。社会というのは人と人が相違に関わりあう中で発生する共同体の総称のことであるのに、わたしのこんな独りよがりの態度は傲慢の極地でしかないだろう。

だから愛を与えたい相手と対峙しているときは、与えて自ら近づくことが正義だと信じて疑わない。愛を与えたい!という欲求に基づいて与える愛なんて、そんなものはただの傲慢な愛の押し付けでしかなくて、自己中心的な陶酔だ。それでもその愛の渦中にいる間は、それが真の愛だと信じて止まないし、むしろ自分の行為をまるで崇高なもののように盲目的に正当化してしまうから、愛という概念は本当に恐ろしい、もはや暴力のような代物だ。同じことをされているときは気持ち悪いとすら思うのに、どうして自分がしてしまっているときは気が付けないのだろう。

多分わたしのような人間はペットを飼って溺愛して生きていくのが良いんだろう。猫飼いたい。

可愛い人なら捨てるほど居るなんて云う癖に
どうして未だに君の横には誰一人居ないのかな
「正しい街」(『無罪モラトリアム』)




富について。

僕らが手にしている富は見えないよ 彼らは奪えないし壊すこともない
世界はただ妬むばっかり
「ありあまる富」(『日出処』)

人生における豊かさってなんだろう。現実なものさしから述べたら「お金」になるのだろうけれど、わたしはその考えにどうも頷けない。もちろんお金がないと生活には苦労するけれど、それでも真の豊かさは精神世界の深度によってもたらされるものだと考えている。

そしてわたしにその深さを与えてくれるのは、新たな人々との出会いだ。旅と読書が大好きだと、一番最初に書いたnoteでも語ったけれど、その二つが大好きなのはそれらを媒介としてたくさんの人々と出会うことができるから。旅と読書だけではなくて、映画も、絵画も、写真も、歌も、勉強も、言語も、それらを通して出会ったことのない人々と対話をできるから好きなのだ。

そしてその出会いを経て得た経験と感情を真剣に味わって、丁寧に築き上げた精神世界は誰も壊すことはできないし、奪うこともできない。昔、おばあちゃんに言われた「さわちゃんの覚えたことは絶対に誰も奪えないんだよ」という言葉の意味が、今ならよくわかる。

どうしても深く傷ついてしまうことや、信じられないくらい理不尽なこともこの世の中には溢れているけれど、それでも自分自身で大切に育んだ精神世界は、時に私たちを守る盾となり、戦うための武器となり、誰かに寄り添うための温もりとなる。だからわたしは、自分の精神世界を守りたい。誰にも侵すことのできないわたしだけの美しい城を、胸の中で大切に築きたい。

こうやってお金よりも大切なものがあると高らかに宣言するわたしを、綺麗事だと笑う人もいるだろう。それでもわたしは何も失わないし、彼らは何も奪えない。

ほらね 君には富があふれてる
「ありあまる富」(『日出処』)




こんな風に、椎名林檎の音楽と出会って十年が経つけれど、彼女の書く歌詞は隅々までわたしの思想や恐怖と、とりわけわたしの心の奥の暗くて湿った箇所と共鳴してばかりで、特に中学生の頃は飽きもせずに毎日ひたすら彼女の音楽を聴いていた。

しかし最近の彼女は打って変わって、人生は夢だらけとか目抜き通りとか明るめの曲を歌ってばかりいたので、歳を重ねるというのはつまりそういうことだと、人生に、世の中に免疫がついていって若いときに感じていた恐怖や葛藤などの薄暗い気持ちが薄れることなのだと、そう未来を楽観視していた。

しかし先日発表された新曲、「TOKYO」。そこで歌われていたのは、冒頭に載せた「どんな最期を迎えて死ぬんだろう」「短く切り上げて消え去りたい」「呑み込んで東京」なんていう、絶望に満ちた暗い言葉の数々。

これらの歌詞は、先に述べたわたしの楽観をいとも簡単にぶち壊してしまった。結局、人間どんなに歳を重ねても怖いものは依然として怖いままなのだと。

何処に行けば良いのですか
君を信じて良いのですか
愛してくれるのですか
あたしは誰なのですか
此の先も現在も無いだけなのに…  
「アイデンティティ」(『勝訴ストリップ』)

「愛してくれるのですか」と問いかけていた少女が、20年という時を経て「ねえせめて愛されてみたかった」と嘆いている。結局、人生における進歩も克服も幻想でしかなくて、「此の先も現在も無いだけ」だったのだろうか…と思わずにはいられない。


彼女の曲を聴いていると痛感する。人生というのは、絶望の詰まった船に乗ってひとりで航海の旅をするような、極めて孤独な作業であるのだと。それでも私たちは生きることをやめられないし、街に無機質な人形のように街に呑み込まれながらも、生活を積み重ねていくしかないのだろう。


そしてそんな風に現実を改めて突きつけてくる彼女の音楽に改めて深く心を奪われるし、わたしは永遠に憧憬の念を抱き続けるのだと思う。
林檎姐さん、一生ついていきます。


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