自分には幸せになる責任がある-選択理論で「自分」を生き抜く(No.1)
今から27年くらい前、私がまだ選択理論心理学と出会う前に、大阪の四天王寺周辺を散歩していたとき、あるお寺の掲示板に、次の言葉が書かれていました。
「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない」
20代前半で就職して、組織でずっと働いてきて、自分よりも他者や組織を優先することが当然の美徳とされるような雰囲気が強い中で、40歳にもなるのにまだ「自分個人」を意識することがぼんやりしていたとき、このような言葉を生まれて初めて目にし、「そうか、自分中心でいいんだ」とすごく救われた感じがしました。
そして、「これが仏教なのか、仏教は個人主義の教えなのか?」ということで、本来の釈迦の仏教や禅について、そして日本の仏教の各宗派のことについて学び始め、禅宗ファン、仏教ファンになりました。
ところで、選択理論心理学では、「責任」の概念として、「責任とは、他人の欲求充足の邪魔をしないで、自分の欲求を充足すること」とされています。
これはちょっと順序を変えて加筆すると、「選択理論では、自分の欲求を充足するために行動をとることは自分の責任である(但し、他人の欲求充足を邪魔しないで)」ということになります。
「ウィリアム・グラッサー~選択理論への歩み」を読んでいると、選択理論の創始者であるグラッサーは所々で、この「自分の欲求を充足するために行動をとることは自分の責任である」ということを強調しています。
この意味で、選択理論も個人主義をベースとする心理学というか、哲学のようなもので、一方、もともとの釈迦の仏教は、宗教というよりも個人の哲学に近いようなもので、この二つは似たところがあるなあと思っています。
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【選択理論で「自分」を生き抜く】の投稿趣旨
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