誰にでも語る資格がある
旅行中に得られた感覚から、以前知人に聞いた納得できない発言を思い出しました。
ドイツの南西部と周辺国を旅しています。
ガツンとくる強烈さはないけれど、歴史が積もった壮麗で重厚な美しさと素朴な長閑さが同居していて、これまで味わったことのない、不思議な静かな居心地の良さに包まれています。
旅っていいなあ。初めての土地を訪れるたびに、新しい感覚の扉を開けてもらえる感じがして、しみじみそう思います。
フランクフルトからスイスのバーゼルに向かう高速列車の中で移り変わる風景を眺めながらそんなことをぼんやり考えていると、ふと思い出したらことがありました。
なぜ自分しか語る資格がないなんて思えるのだろう
随分と前に、ブラジル関係のイベントで知り合った日本人の男性の言葉。
「俺は誰よりも一番ブラジルを知っている。よく知りもしない奴が間違ったことを語るからほんとに困ってるんだ」と。なんともいやな気持ちになりました。
確かに彼は、現地の名門サンバチームに演奏メンバーとして所属し、ブラジルの音楽をよく知っていて、向こうにも度々滞在し、友達も多い人でした。
しかしそれは彼の立場や視点から理解したブラジルであって、ブラジルの全てではありません。
私が彼の視点を知らないのと同様に、思春期にブラジルに住んでいた私は、彼が知らないブラジルの一側面を知っています。
確かに歴史的な年号や人名など、明らかな事実の誤りなどは正してあげてももよいのかもしれません。でも、その人が感じたことに誤りなんかありません。
誰も、ある国の全てを知ることなんて出来ない
旅をしても、そこの国の表層の一齧りしか出来ません。でもだからといって、何も語るべき資格がないと言うのはおかしな話です。
体験や知識は住んでいる人よりは少ないかもしれないけれど、旅人ならではの視点で見たものがあります。
逆に、誰も、ある特定の国について、全てを知ることなんか出来ません。年齢や場所、時期、階級などが違えば受け取るものは異なってきますし、住んでいる人の数や訪れた人の数だけ、膨大な異なる視点があります。
同様に、私が日本人であるから日本を一番知っている、ということも言えません。日本について詳しく研究したり、誰よりも長く住んだら一番日本に詳しくなれのかというと、それも違う。
日本人の私たちもそれぞれの視点でしか、日本を知らない。
この世界はそれぞれの人のもの
自分が全てを知っているわけではないということに対してはあくまで謙虚に、しかし語るときには「私はこう思う」と自信を持って大胆に行くのがいいのではないだろうか。
これは以前の、大御所なんてものはいないという、ピラミッドの話に通じることなのかもしれません。全てを知っている人なんていないということ。
車窓を流れる風景を見ていたら、いつの間にか、こんな根本的な話に行き着いてしまいました。
この世界は誰かのものではなく、それぞれの人のもの。
誰にでも、その人が感じたことを語る資格がある。
フランクフルトからバーゼルへ行くための、ICEという高速鉄道を待っているところです。
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