見出し画像

「PLAN 75」ほんの少し先のディストピア

75歳以上の高齢者に安楽死を勧めるというディストピア日本を描いた映画「PLAN 75」を観た。

良くも悪くも日本らしい静かな語り口の作品で、最後に至ってはちょっと観る側に委ねて投げ出しすぎなのでは?という感想も持ったのだが、このディストピアはほんのちょっと先に本当に起こり得るんじゃないかというリアリティが確かにあり、重たい気持ちになった。

私の母は77歳で、4年前に夫を亡くし、独り身となった。娘(私)は海外住まい、息子(私の兄)は母の家の近所に住んでいて毎晩のように母を訪ねて夕飯を共にしている。父を亡くして長く落ち込んでいたことは前の投稿でも触れたが、去年の秋に3年ぶりに帰省した際に「シルバー(人材センター)に登録しよかなと思てんねん」と言っていて、地域や他の人との交流にもなるし本人も少しでも元気になれるのではないかと思ったので背中を押しておいた。そして今年初め、母はシルバーで週2日それぞれ数時間だけだが仕事を始めた。お金のためではない。単調な毎日にリズムと刺激を与え、仕事先で人々と話し、地域にちいさな貢献をしている。私は母が77歳で再度社会に出て働こうと思い、実際に行動に移したことについて誇らしく尊敬の念を抱いている。長く人生を共にした夫を亡くしてもなお、大きな喪失感からなんとか抜け出して、生きているうちは前に一歩進もうという勇気に拍手を送りたい気持ちだ。そんな母もPLAN 75が施行されている世の中だとしたら対象年齢にあてはまる。

話を「PLAN 75」に戻す。
主人公ミチはホテルで清掃の仕事をしていて、同じく高齢の同僚たちとそこそこ楽しげに集まったりしていたのだが、ある日一人の同僚が仕事中に倒れ、ホテル側は高齢者の採用を辞めてしまう。職を失ったミチは、自分はまだ働ける、と次の仕事を探すがなかなか雇い主が見つからない。倒れた同僚は後日自宅で孤独死をしており、ミチもとうとう途方に暮れてPLAN 75に申し込むのだ・・・

高齢者たちにPLAN 75の説明をし入会(?)手続きの仕事を淡々とこなしている若い男性。PLAN 75によって死を選ぶ人々の死後、その人々の所持品を整理する仕事をしているフィリピン人の若い女性。PLAN 75を選んだミチの、いわば死後までの道先案内人・担当者となる若い女性。これらの若い人々の、何と輝きのない描写だろう。出てくる団地、部屋、職場やPLAN 75の施設に至るまでなんと寂しく荒んだ光景だろう。若い人々の未来の為に取られたと謳われている政策・PLAN 75が経済的な効果を上げ、近い将来その対象年齢を65歳に引き下げるというニュース音声が流れるシーンがあったが、出てくる場面に日本の裕福さが垣間見られることはなく、根底にどんよりとたたずむ貧困の影がちらつくばかりだ。

他人の人生の価値を、今作でははっきりと「年齢」によって決めようとしている。ごく控えめではあるが、小さな小さなレジスタンスの描写もあるにはあった。それですら、空中に舞う埃のごとくなかったことにされ、どこまでも丁寧な事務手続きとしてのPLAN 75に押し流されていった。

冒頭、高齢者を殺害して、高齢者が社会に不易不要であるという表明を残して自死する若者が出てくる。私は2016年の相模原施設殺害事件を想起した。本作はあまりにも淡々と描かれているが、これは『社会が不要と(勝手に)判断した人を排斥する』話だ。その意味において、例えば過去にナチスドイツが取った政策と根本を同じくしている。本作はナチスドイツのように直接的な暴力によって高齢者(または社会に不要と判断された人々)が殺害されるわけではないが、(高齢者・・・・なんでPLAN 75を選択しないんだろう・・・)という社会の冷たい目、感情をすっかり無くしてしまった事務員たちのうわべだけの丁寧で優しい対応は、充分に残酷かつ暴力的だった。鑑賞後もずっしりと重く心にのしかかっている。

今日食べたもの:
卵サンド、ポテトグラタン、ネクタリン、きゅうり



この記事が参加している募集

#映画感想文

67,587件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?