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私は自殺しようとしたことがない(夢か金かの選択 〜あと3日〜)

中学時代、不登校だった時に私は、ひどく死ぬことを恐れていた。地震、事故、火事、殺人、戦争、あらゆる死に対するイメージがひとりでに膨らみ、ほとんど発狂しかけて何度か精神科医に罹った。不登校が原因のように医者は言っていたが、私はそうじゃないと知っていた。例えば地震が怖くて、家に地震シェルターを作ってくれと親に本気で頼んだことがあった。父親はそんなもの、と鼻であしらったが、私の頭の中ではシェルターがなければ死んでしまうというコンテキストに切り消えられていたので、親のくせに見殺しにする気なのか、と信じられない気持ちになり、暴れた。それは不登校自体に要因があったわけではなくて、私が何者でもなかったという事実に起因していた。このまま死んでしまったら、私には何も残らないと思い、だからそれが怖くて発狂しそうになった。でも、暴れたりありもしないイメージを膨らませながらも、発狂することは死ぬことと同じだと気づくと、不意に自分を俯瞰で眺めて、冷静さを取り戻せた。死ぬのが怖い、そうはっきりと言葉にした時私は、普通に生きたいと強く、初めて感じた。それまでは別に不登校とか通学しているとかは、どうでもよかったのだ。

だからと言ってすぐに中学に行くのはまた別問題だった。そのため、私は定時制高校に行けるように、特別支援学校で受験勉強に励んだ。そうやって勉強に励むというアクションを実際に起こすと、死に対する具体的なイメージはほとんど想起されなくなった。精神科医は学校に行くことができる未来が近づいて、前向きになっている、みたいなことを言っていたが、私はその姿を俯瞰で見ながら、なんて適当なことを言う医者なんだろう、と思った。不登校と死のイメージが直接的に繋がっていないのは、私が一番よく知っていた。その証拠に、高校に通い始めてすぐは、死に対するイメージが再発した。今までは何者でもないまま死ぬことへの恐怖だけだったが、そこに現在の幸せを失うという、より具体的な損失が生まれてきたのだ。それでも普通に学校に通う、まずはそこにフォーカスしながら部活を頑張ったり、友人と遊んだりして、次第にそういうイメージも薄まった。そして、これは後々気付いたのだが、私が死のイメージから完全に解放されたのは、初めて女の子の手を握った時だった。高校1年生で初めて異性の体に直接触れ、私はもう何者でもないわけではないと、確信が持てたのだ。

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