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見えないところ

2020年から参加している、編集者・藤本智士さん主宰の「りスクール」というスクールコミュニティで、デンマークで暮らす自分のことを話す機会をいただきました。地域編集というテーマや、藤本さんがつくり出す世界に共感し、影響を受けている人が集まるコミュニティで、遠い国に暮らす自分が何を話せばよいか、デンマークの話なんて聞きたいかなぁと不安になりつつ、それでも「伝える」「伝わる」について考える良い機会かもしれないと思いながら準備をしました。

デンマークで暮らすこと を話す

お話するときには、よくある「デンマークとは福祉や教育、民主主義の進んだ国」という、作り上げられた、もうお腹いっぱいな語り口ではなく、自分という、ひとりの、何でもない人間として、好きなこともそうでないことも全部ひっくるめて自分の言葉で話してみたいと思っていました。

そこでまず、なぜ自分がデンマーク語科に入学したのか(今は大阪大学と合併されてしまった、大阪外国語大学・デンマーク語学科出身です)、今までデンマークでどんな思いで生きてきたのかを色々と振り返っていきました。すると、自分が10代の頃、周りの世界にとけ込めない、自分はみんなと違うという悶々とした感情をもち続けていたことを思い出しました。今回は、りスクールでお話しする機会をもらったことで振り返ることができた、自分とデンマークとのかかわりについて書いてみようと思います。

ここから出ていきたい

小学6年生頃から中学、高校までのあいだ、わたしはずっと学校や周りにとけ込めないと感じていました。もし今の時代に生きていたら迷わず不登校を選んでいたと思う、でも昭和の終わりから平成にかけたあの当時は、それがまだまだ難しく(それでも不登校を選んだ勇気あるクラスメートもいましたが)、学校は行くものだと、学校でも家庭でも思い込まされていた気がします。中学の理不尽な校則、同じテレビ番組を見ていないと疎外感を感じること、互いの容姿にコメントし合う日々、そのどれも、今だからはっきり言いますが、まったく馴染めず楽しめませんでした。

校則や大人の決めた決まりごとに疑問や不満があっても、その理由を問うことは許されていませんでした。しぶとく疑問をもったり、意義を問うことは「屁理屈」といわれ、自分はそれに従いたくないといえば「わがまま」とレッテルを貼られました。子どもが疑問をもつこと、説明を求めることは、シンプルに言って、してはいけないことでした。

小学生の頃、何年もかけてようやくそれを学びとった10代のわたしは、疑問や不満が頭に思い浮かばないように生きるという選択をしました。どうせだれも分かるように説明してくれないし、屁理屈でわがままだと言われるだけならもういっそのこと、ただ言われたことに従っていれば良いと思うようになったのです。

でも、それで解決したかというとそうではありませんでした。おかしいと思うこと、説明をしてほしいという気持ちは行き場なく、ただ自分の心を灰色にしていくばかりでした。灰色に染まった心は、将来の夢や希望へと変わるわけでもなく、ただ、ここから出ていきたい、こことは別の世界に行きたいという思いを紡ぎ出しました。その思いがかすかな希望となって、日々の自分を支えていたように思います。

そんな高校生活を送っていたわたしは、別の世界とつながりたい一心で、外国のペンパル(文通相手)を見つけます。まだインターネットもメールもない時代、子どもが自力で外国とつながる唯一の方法だったと思います。そしてデンマークのペンパルと知り合ったことがきっかけで、「外国語大学・デンマーク語学科」の存在を知ったのです。なんと謎に包まれた世界!自分の生活圏では体験できない、新しい世界がそこにあると感じ、迷わず第一志望に選びました。

とはいえ、大阪外大はわたしが軽々しく目指せる大学ではありませんでした。高校3年時の担任からは「さわぐりさんの成績では無理」の一言。それでも、今の苦しみから逃れるためには、努力することが自分にとっての唯一の希望だと感じました。

担任の判断はもちろんまちがっていませんでした。一択で受けた大学入試は不合格。でも悲しみはありませんでした。もう一年がんばればいけるとどこかで信じていました。第二次ベビーブーマーとして生まれたわたしにとって、取柄なんて努力ぐらいでしたから、それはまったく問題ではありませんでした。そして翌年、なんとか外大に入学できたわたしは、デンマークとつながるきっかけをつかんだのでした。

その後の20代は10代とはちがい、本当に幸せな日々でした。自分が学びたいことを目いっぱい学び、旅行や留学でなんどもデンマークに行き、言語や文化、社会について多くのことを学びました。学ぶことがこんなに楽しいのかという発見もあった時期でした。その中で、自分がこれまで蓋をしてきたこと、つまり、わからないことや疑問に思うことを言葉にすること、自分の意見をもつことが、この国では大切なことだと知りました。自分が育ってきた価値観と大きく違うことに戸惑いながらも、古く錆びついた自分の心が、生き生きと息を吹き返したのを覚えています。つたない言葉でもしっかり聞いてくれる、わかるまで説明してくれる、それを申し訳ないと思わなくても良い。その環境にとても刺激を受けた日々でした。


生活者として

「人と違っても、自分はこれで良い」と思えるようにしてくれたデンマークとの出会い。その後、日本に帰国する予定だったのですが、色々なことが重なり、30代は生活者として、また、移民として、この国で暮らし、家族をつくって暮らすようになります。

20代の自分を育ててくれた憧れの国デンマークでしたが、生活者として、移民として、これからどのように生きていったらよいのかを考えた時、わたしは愕然としました。すぐに働ける仕事の経験も資格もない自分。この国でどうやって生きていけばよいのか。人生をまたリセットしたような感じでした。そして、移民という立場になった途端、それまでそこそこ話せると思っていたデンマーク語が、実は社会で生きていく上ではまだまだ通用しないレベルであったことも思い知らされます。意識しないと言葉として頭に入ってこない言語、定住して社会にコミットすればするほど感じる疎外感、さまざまなことが続き、自信を失い、結果を出せない自分は価値のない人間だとさえ思うようになっていきました。

その後のことは、永住権について書いたこの記事などにも少し書いています。時代も変化していたさなかで、それまでの、わたしの知っていたヒューマニズムにあふれたデンマークではない、排他的な思想や社会が新たに確立されつつありました。そんななかで、非西欧人として、歓迎されない自分が、いかに価値のある優良外国人(この言葉を書くだけでも嫌ですが)であるかを、必死にアピールして生きていたように思います。仕事に就くこと、社会に貢献すること、社会のお荷物でないように振る舞うことが、この国で、外国人として生きる自分の存在意義を示す唯一の方法のように感じていたのかもしれません。

そんなとき、配偶者ビザではなく、自分のための永住権をなんとか取得できた意味は大きなものでした。このとき、それまでの負荷が一気に表れたのか、胃が痛くなって数日仕事に行けなくなったぐらいなので(根性は30代で底をつきました)、自分にとって相当なストレスがあったようです。そして、これをきっかけに、もうだれに遠慮することもなく、何でもない、ただの、ひとりの人間として生きていられるだけで幸せだと感じられる生き方や暮らしをしたいと思うようになりました。

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最後に、わたしが尊敬しているエマ・ホルテンという女性が「フェミニズム的視点からみた経済学」という講演会で話していたことを、一枚の写真とともに紹介したいと思います。

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訳語:
左)社会
上)お金に換算される(=給料をもらう)仕事
下)無給/給与の低いケアワーク
(社会とは、キノコと根っこの両方でできているという話)

エマ・ホルテンはこの講演で、社会とは、お金に換算される仕事とされない仕事の両輪で成り立っていて、どちらも同じだけ大切なものだという話をしていました。そう、何も新しい話ではありません。家事や育児、介護などのケアワークは無給であったり、給与という形では高く評価されていないことは、世界共通です。それはもちろん改善していかなくてはいけないことです。ただ、それを貨幣経済というものだけで改善することが、本当にわたしたちを幸せにするのかという疑問は自分の中にぼんやりとあります。

そして同時に、人の生き方もこの図と同じように、土の上に見えているものだけで、その良し悪しやその人の価値は測れない、見えないものがその人の人生を豊かにしていることも多いのではないかなとも感じるようになりました。それに気づいたとき、自分自身をどう認識するかということが大きく変わってきた気がしています。そこに行きつくまでにこんなに長い時間がかかってしまった、でも、それに気づくことができたとき、人生は本当に自分次第なんだと思うようになりました。もうだれかの、どこかの、いつかの時代の価値観で自分を評価する必要はない、自分が大切だと思うことを信じて、その燈火を絶やさずに、ただ生きていけばよいと思うようになった、というのでしょうか。どこかに拠り所を求めなくても、それは自分の中にある、そして小さくても自分が大切にするもの、その燈火を絶やさなければ、きっと出会える仲間や世界がある、そこから育つものがあると思えるようになれたのかもしれません。

見えないところ、というタイトルで長々と書きました。
人生には本当に死角が多い、それに気づく過程こそが生きる醍醐味なのかもしれません。紆余曲折を経て、自分がただ自分として、何者でもない、ひとりの人間として喜びをもって生きることに、やっと辿りつけたような気がしています、少なくともそれが光を放っていることにやっと気づいたというのでしょうか。それが、わたしにとってデンマークとともに歩んできた道のりなのかもしれません。

写真:旧市街の古い建物と木製の梁。大通りからは見えず、少し入り組んだ建物の合間に見られるものです。

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