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苫野一徳さんの本『勉強するのは何のため?』から、デンマークの教育を説明してみる

わたしがデンマークの学校教育に興味を持ったのはもう随分前のことです。90年代の終わりにデンマークの学校教育について調べたり、2003年に留学した際、自由度が高く、信頼をベースにした子どもとの向き合い方に、居心地の良さを感じました。

その後、デンマークで暮らすようになってから、学校で学んだり、児童図書館や学校図書館で働いたり、また親として学校と関わる中で、様々な体験や考えを膨らませてきました。今回はそれを少し整理したいと思います。

デンマークの教育について日本人が感じること

デンマークに視察に来たり、留学中の学生さんが学校現場を見学して、初めに受けるデンマークの学校の印象は、次のようなものかなと思います。

・討論が多い
・グループワークが多い
・正解にこだわらない
・自分がどう考えるかを生徒が年齢に関わらず主張する
・授業中に教員と生徒のやり取りが多い
・教員の一方通行授業が少ない(多いと子どもがあからさまにダレる)
・個人(またはグループ)での学びと集団としての討論が組合わされている
・問題解決型学習が非常に多い
・個人の能力を最大限に伸ばす形の学習は少ない
・聞く力を養う機会が少ない

苫野一徳さんの本から

教育哲学者の苫野一徳さんの本を、この数か月の間に何冊か読みました。わたしは20代の頃、教育学を専攻し、日本で教育に関わりたいと思っていたのですが、その後あれこれと人生の進路変更をして今にいたります。教育というテーマからは、もうとっくに離れたつもりでいましたが、子どもを産んだり、また学校で働いたりしたことで、まだそのことが気になっていることに気が付きました。そして、2020年という(90年代終わりに学生だったわたしからしたら)こんな未来になっても、昔自分が関心を持っていたテーマと同じことがまだ議論されていたり、教育や生き方について、しんどい思いをしている若い人がたくさんいることも、改めて知りました。

ということで前置きが長くなりましたが、デンマークの学校教育になんとなくずーっとひかれてきた自分が、苫野さんの本を読んだとき、なぜか、すごく深いつながりを感じたのです。そのことを少し自分なりに掘ってみたところ、苫野さんが示されているキーワードと、自分が見てきたデンマークの学校教育の様子に、共通点があると思うようになったのです。そこで今回は、わたし自身が感じることを改めて整理にしてみようと思いました。

読んだ本の中でも、特に、誰にとっても分かりやすく書かれている『勉強するのは何のため? ー 僕らの「答え」の作り方』(日本評論社)という本から、いくつかキーワードを拾いながら、書いてみたいなと思います。

その前に、まずデンマークの学校教育という話をする前提として、デンマークの教育が正解であるとか、日本の教育は間違っているといった視点ではないことは明記しておきたいと思います。それは苫野さんが書かれている「問い方のマジック」でもあります。どちらの教育がより良いのか悪いのか、という問いでこの問題を見ることはできません。そもそも、どちらかが良くてどちらかが悪いというものではありません。どちらも、それぞれ良さがあり、改善できる点があるでしょう。また、ここで書くことは、デンマークの全ての学校で必ず見られることではないかもしれません。多少の違いは、この小さな国でもあります。それでも、わたしが見てきたデンマークの様子を、苫野さんのキーワードと絡めることで、より分かりやすく整理できると思ったのです。以下、3つのポイントから、説明してみたいと思います。


1.自分にとっての正解を見つける

『勉強するのは何のため?』では、絶対的な正解というものはない、という話が出てきます。戦後、経済成長こそが正解であった日本では、正解を求めることに、あまりにも慣れ過ぎていると苫野さんは言います。そして(存在しない)絶対的な正解を求めて、わたしたちはどん詰まりやニヒリズムに陥ってしまう。しかしむしろ、わたしたちは、自分にとっての正解、自分なりの生き方を見つける必要があると苫野さんは述べています。

ここで出てくる「自分にとっての正解」。これを考えるとき、もしわたしがまだ10代だったらまず思うだろうことは、「自分」ってだれだろう?ということです。絶対的な正解がないことは理解できたとしても、その場、その場にふさわしい正解というものはある気がどうしてもしてしまう。そして、それに自分をアジャストすることが、正しい行為だと思って生きていたとしたら(空気を読むとか忖度とかね)、そうではなくて、"自分"にとっての正解って、どうやって見つけられるのかなと思うかもしれません。

翻ってデンマークの話をすると、ここの子どもたちは、保育園の段階から、自分がだれなのかを、毎日の小さな行為を通してつくりだしています。だれと遊びたいか、何をしたいか、お昼ご飯の黒パンに何を乗せて食べたいか、日々向きあう小さな選択に、ぼくは、わたしは、これがいいと、自分の中で決断をすることが求められます。大したことではないけれど、自分で選んで決めるという行為の連続が、自分をつくっていくことになっているようです。もちろん、思春期に向き合う「自分ってだれ?」という問いはありますが、それ以前から、ここで育つ子どもたちは「何をしたいか」「どうしてそうしたいのか」を言葉にしながら育つ機会(後述しますが)をもって日々生きているので、自分がだれなのかが比較的わかりやすく、育っていると思います。そして、自分のことが分かっていると、自分にとっての正解もみつけやすいだろうと思います。

2.自由の相互承認の原理

苫野さんはさらに、誰にでも共通する勉強の意味とは、〈自由〉になるためだといいます。この〈自由〉の意味とは、生きたいように生きられることで、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感のことを指すそうです。

そして、自分が〈自由〉になりたいのであれば、それをただ素朴に主張しあうのではなく、相手の〈自由〉もまた承認する必要がある。相手もまた、自分と同じように〈自由〉に生きたいと望んでいるのだということを、まずは認める必要があるといいます。そして、お互いの主張を調整しあうことが、〈自由〉の相互承認なのだそうです。

デンマークの例で話すと、これは本当に学校での日々の様子からすぐに見て取れます(きっと日本でもあると思いますが)。例えば、休み時間に生じた子ども同士のコンフリクト。小学部の休み時間直後の教室では、よく、だれが何をしたから、ぼくは・わたしはこう思った、嫌だった、良くないと思うなどの話し合いがもたれます。先生たちは、それぞれの子どもの言い分を聞き、子どもたちは感じたことを伝え、その行為が自分にとって、相手にとってどうだったか、自分は、相手はどういう意図からそれをしたのかなどが話し合われます。最終的には、発言や行為が問題だったとなると、謝ることもありますが、誤解や行き違いによることなども明らかしていきます。この時に、それぞれの気持ちを聞き取ることがとても多いです。こうして、互いに、あるいはクラス全体で、人として関わる上で生じる問題解決に向き合う日常があります。

このとき、ぼくは、わたしはこう思った、これが嫌だったということを子どもたちは言葉にするのが上手いなと思うことが多いのですが、それも、幼いころからの訓練によるところがあるとわたしは思っています。そして、それぞれ一人ひとりが違うということが、もう幼い段階でかなり明確になっているからこそ、自分の気持ちは他者の気持ちとは違うこと、そしていつもどちらかだけが正しいのではないこと、そして、言葉にしなければ伝わらないことがあることを前提として、互いの主張を調整し合えるようになるのだと思うのです。

これが、ここの学校の日常にある「自由の相互承認」のひとつだと感じています。そして、この「自由の相互承認」のためにまず必要なのは、それぞれが違う存在であること、つまり"個"という存在であることを認めること、そして、それぞれの"個"の多様性も同時に認めることです。それなしに、互いの「自由の相互承認」は難しいだろうと感じています。

3.承認と信頼
「いじめはなくせるの?」という章の中で、苫野さんはいじめの根本的な理由として、「自己不十全感」があると説明します。「自己不十全感」とは、自分に対する不満のことで、わたしたちが根元的に「生きたいように生きたい」、つまり〈自由〉になりたいという欲望がかなえられないために、自分への不満を抱える状態なのだそうです。それが、自分ではなく他者に向けられる時に、いじめにつながるのだと苫野さんは述べています。

また、特に中学、高校になると日本では厳しい校則や学校からの過度の管理が始まります。このような生徒の管理も、自己不十全感を抱かせる原因となるのだそうです。過度の管理とは、相手を信頼していないことがベースにあり、管理される側は、自分は信頼されるに値しないと感じて、自己不十全感やうっぷんがたまるのだそうです。

これを読んで、わたしは信頼や自己決定というテーマについてのある論文を思い出しました。それは、子どもが、自分の生活の中で自己決定できる機会と、積極的な社会参加には相関があるというようなことが書かれたものでした。デンマークでは、子どもたちは、学校や身近な社会で、積極的に意思決定に参加することが奨励されています。これは、デモクラチ(民主主義)にもとづいた社会を構成する上で大変重要なスキルで、この力が幼い頃から大切にされています。そして、その力を育むために必要なことが、承認と信頼です。

論文によると、子どもは自分の意見が聞き入れられると、自分自身の感情や関心に敏感になり、周りの人々の感情や意見を尊重できるようになるのだそうです。逆に、他者によって自分に関することが決められてしまうと、その子どもは、自分の感情や関心に無自覚になったり、他者に依存的になり、大人を喜ばせることが良いことだと考えたり(自尊心の低下)するのだそうです。また不安も増えるとのこと。

つまり、簡単にまとめてしまうと、管理教育で子どもたちを信頼せず、大人が一方的に子どもを管理すると、子どもは自己決定力を育む機会を失うだけでなく、自分の感情や関心に無自覚になったり、他者に依存的になったりするということ。また、社会参画に関心をもつチャンスさえないことになります。

子どもへの承認や信頼は、なぜできるのでしょう。わたしが思うここでの承認や信頼とは、子どもに完璧を求めることでもなければ、大人の期待通りに行動させることでもないのだと思います。承認や信頼とは、一人ひとりの子どもが、自己決定ができるように、自分自身をつくっていくこと、そしてそれを応援するということです。そこにはお手本や正解はありません。

そして、子どもが自己決定ができるということは、他者の〈自由〉への配慮もできるようになるということ、少なくともそれを目標とする、共通理解をもつということで、それは結果として、他者と共に生きることを前提とした、自己・他者の尊重につながるといえるでしょう。それが、上の記事にもある「デモクラチ」につながっていくとわたしは考えています。

子どもへの承認や信頼を感じる、日々のコミュニケーションを、わたしは多々見てきました。子どもへの何気ない声掛けがポジティブであることもその一つです。わたしは、そういう言葉を子どもの頃に学校でかけてもらってこなかったので、自分がここで声をかける立場になったとき、正直とても難しく感じました。かなり意識しながら声をかけるように努力していました。

親としても、先生方の言葉かけから、子どもへの承認や信頼を感じるときがあります。それは、保護者面談で必ず、子どものことを様々な言葉で、積極的に評価にするところから始めることです。特に小学部では、子どもの社会性が学力よりも重視されますが、そこにはもちろん正解はなく、多様な側面から、子ども一人ひとりについて認める表現をしてくれます。そういった行為を通じても、子どもへの承認や信頼が形成されているように感じます。

また、教員と管理職の関係でもそれは同じです。保護者とトラブルが生じるなど、教員が最前線に立って問題に対処せねばならない時、管理職はその教員をしっかりバックアップするという様子を何度か目撃しました。もちろん、学校の運営方針に沿っていることが前提ですが、管理職が教員を守り、相互の信頼関係が確認できることは、そこで働く教員自身にとっても、大きな意味があるだろうと思います。

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教育哲学者の苫野一徳さんの著書からヒントを得て、わたしが見て感じてきたデンマークの学校教育を、デンマークのデモクラチともつなげて整理してみました。苫野さんのご著書には、とても参考になる様々な考え方が記されています。教育に関心のある方にとってもお勧めです。わたしも改めて、普段考えていることを整理する良い機会になりました。

苫野一徳著 『勉強するのは何のため?ー僕らの「答え」のつくり方』日本評論社(キンドル版)

Krag-Müller, Grethe (2006) ""Må jeg, må jeg, må jeg?": om børns oplevelse af indflydelse i familie og skole" Psyke & Logos, Årg. 27 nr. 1 s.396-418.

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