悲しみは悲しみとして
"Troldegrene" af Camilla Wandahl, Anna Margrethe Kjærgaard. Facet, 2017 Danmark. 「トロルのえだ」カミラ・ワンダール作、アンナ・マルグレーテ・ケアゴー絵 絵本 デンマーク
今日は、エリカがサマーハウスからコペンハーゲンの自宅へ帰る日。帰る前にはいつもパパとママと三人でトフィフィチョコを食べるので、エリカはテーブルについて、二人が来るを待っていた。やっと二人がいすに座ると、ママが「エリカ、話があるの」と切り出す。「パパとママは離婚するんだよ」とパパ。エリカは黙ったまま、もう一つチョコを口に入れる。エリカは何も言わない。何も言わなければ、それは聞こえないのと同じだから。
「パパの言ったこと、聞こえてる?」とママ。エリカはまたひとつチョコを口へはこぶ。キャラメルとチョコとナッツのつぶでいっぱいになった口の中のものをゆっくり飲み込むエリカ。口が空っぽになったとたん出てきた言葉は「いや!いや!いや!いや!いや!」。そう言うとエリカはサマーハウスから靴も履かずに飛び出していく。
森の中をさまようエリカ。夕暮れが暗闇に変わり、森の木々や枝葉の様子が不気味に変化していく。木々の枝に身体を取られ、くぼみに落ちてしまうエリカ。助けにやってきたパパとママに抱えられ、エリカはサマーハウスへ戻る。身体をきれいに洗ってもらい、エリカはパパとママと並んで横になる。三人は互いにぴったりと寄り添う。世界で一番幸せな時間のように感じられる瞬間。「もう、離婚、しないよね」と問うエリカに「それはもう決まったことなのよ、エリカ」と答えるママ。エリカの身体に、たくさんの痛みがはしる。そして涙があふれだす。「悲しんで良いんだよ、エリカ。パパたちはエリカのためにいるんだからね」とパパ。怒りと悲しみがエリカの身体からあふれ出す。
翌朝、目を覚ましたエリカはパパとママの間から這い出し、二人を眺める。ママはもうパパの身体に触れることはないけれど、エリカが真ん中に寝ころべば、また二人の手はのびて、するりとエリカの身体を包む。森の枝のように。二人は別々になるけれど、二人はずっとエリカのことを温めてくれる。
要約ではさらっと扱ってしまったけれど、エリカがサマーハウスを飛び出し、森の暗がりの中をさまよっているシーンに多くのページが割かれているこの作品。悲しみにあふれ傷ついた心で、暗がりの中をさまようエリカに、森の木々は不気味なトロルのように襲いかかる。そのイラストは、子どもの頃に見た谷内六郎やトーベ・ヤンソンの絵を想起させる。子どもの視点から見た、自然の暗闇が持つ独特のおどろおどろしさを、白黒を基調としたイラストがとてもよく表している。
この本にはエリカが両目から涙を流して悲しんでいるシーンがあるのだけれど、これを見て、先日、勤務校で「身体とその境界線」というテーマで授業をしたときのことを思い出した。毎年6週目(Uge 6)はその数字の発音から、デンマークの小中学校では性教育を扱う特別週間にするところが多い。私も同僚と図書館で、3年生向けにそのテーマで授業をしたのだけれど、その時の同僚と子どもたちの会話を思い出す。「友だちが先生から叱られているのを見たら、どんな気持ちになりますか?」との同僚の問いに、多くの子どもたちが悲しくなると答えた。だが二人だけ「何も感じない」という。理由を尋ねると「叱られているのを聞こえないようにするから」「自分じゃなくてよかったと思うから」という答えが返ってきた。「それは要するに、悲しい気持ちを感じているのに、そこに蓋をしているということだね」という同僚の指摘に、子どもたちは少し考えて、うなずいた。悲しいという気持ちに、無意識に私たちは蓋をしてしまうことがある。悲しみを感じるのは心が痛く、辛いから。「悲しんで良いんだよ、自分の気持ちをそのまま感じて良いんだよ。自分の心や身体がどう感じているかを知ることはとても大切なことだから」と同僚は子どもたちに話していた。このお話とも通じると思う。エリカの悲しみを真正面から扱ったこの作品。とても心が痛く辛いけれど、子どもたちがその気持ちに蓋をしないためにも、こうして真正面から子どもの悲しみに向き合い、寄り添う作品があることは、すばらしいことだと思う。
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